書評:岸見=古賀『嫌われる勇気』ダイヤモンド社(2013/12/12)


書評:岸見一郎=古賀史健『嫌われる勇気』ダイヤモンド社(2013/12/12)


本書の概要

本書は,対人関係で悩む人々に対して,そもそも,すべての悩みは対人関係から生じているのであり,それを乗り切り,幸せをつかむためには,あえて,「嫌われる勇気」を持たなければならないという,アドラー心理学の基礎知識を対話形式で明らかにする本です。

そして,本書は,以下の5章において,私たちが,対人関係乗り切るための基礎理論を明らかにしています。

第1夜:トラウマを否定せよ

ここでは,自分との接し方として,決定論となりがちな「因果律」や「過去」にとらわれという「決定論」に組するのではなく,人生の目標に向かって生きるという「目的論」的な考え方の重要性が詳しく論じられています。

人間は,目的にあわせて怒りを捏造したり(例えば,カッとなって怒ってしまったという場合も,実は,人を支配したいという目的のために,怒りを道具として使っているにすぎないとされます),記憶を再生させたりする(例えば,子供の時に犬に咬まれた悲惨な体験から,世間は恐ろしいことだらけだと世間を拒絶していた人も,世間と折り合いをつけようと思ったとたんに,犬にかまれたあの時に,病院に連れて行ってくれた優しい人がいたことが思い出される)のです。

しがたって,逆に,現在を規定する(決定的影響を及ぼす)ような過去の事件としてのトラウマも存在しないと,アドラーは,断言します。

第2夜:すべての悩みは対人関係

ここでは,対人関係に入ることを恐れている人に対して,劣等感は誰にでもあること,しかし,それを劣等コンプレックスへと悪化させてはならないことが論じられています。

例えば,身長が平均よりも低いということは,劣等感として持つことはあっても,「背が低い」から「もてない」というように,「AであるからBできない」と考えるのは,劣等コンプレックスであり,逆に,「背が高ければもてるのに」と考えることを含めて,避けるべきだというのです。

なぜなら,背が低いということは,人を和ませるというような長所ともなりうるのであって,「もてる」とか「もてない」とかの決定要素だと考えるのは,見かけの因果律に陥っているからです。

そして,ここでは,対人関係に入る準備として,行動目標として,①自立,および,②社会との調和心理面での目標として,①ありのままの能力を受け入れること,および,②人々は敵ではなく,仲間であるとの自覚の大切さが説明されています。

第3夜:他者の課題を切り捨てる

ここでは,対人関係を乗り切るための「課題の分離,他者の課題をちり捨てる」という方法論が,以下のように,語られます。

・ われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から,自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
・ 『他者の課題には踏み込まない。』それだけです。
・ およそあらゆる対人関係のトラブルは,他者の課題に土足で踏み込むこと——あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること——によって引き起こされます。
・ 対人関係のベースに「見返り」があると,自分はこんなに与えたのだから,あなたもこれだけ返してくれ,という気持ちが湧き上がってきます。もちろんこれは,課題の分離とはかけ離れた発想です。われわれは見返りを求めてもいけないし,そこに縛られてもいけません。

アドラー心理学の特色としての「叱ってはいけない,ほめてもいけない」という格言が語られるのもこの個所です。

・賞罰教育の先に生まれるのは,「ほめてくれる人がいなければ,適切な行動をしない」「罰する人がいなければ,不適切な行動もとる」という,誤ったライフスタイルです。
・ ほめてもらいたいという目的が先にあって,例えば,ごみを拾う。そして誰からもほめてもらえなければ,憤慨するか,二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう。

第4夜:世界の中心はどこにあるのか

ここでは,対人関係を克服した後に,また,対人関係に敗れたときに生じる課題として,自己中心に閉じこもるのではなく,社会との調和の重要性が,以下のように語られています。

・ もちろん,社会と調和するといっても,八方美人である必要はありません。
・ それは,ポピュリズムに陥った政治家のようなもので,できないことまで「できる」と約束したり,取れない責任まで引き受けたりしてしまうことになります。無論,その嘘はほどなく発覚してしまうでしょう。そして信用を失い,自らの人生をより苦しいものとしてしまう。もちろん嘘をつき続けるストレスも,想像を絶するものがあります。

破滅が目に見えている八方美人にならないためにも,「嫌われる勇気」が必要です。

第5夜:「いま,ここ」と真剣に生きる

ここでは,人生を幸せに生きる方法を惜しげもなく披露しています。詳しくは,本書を読んでいただくほかありませんが,以下のような,私たちにほぼ共通する問題を解決するには,的確なヒントを見つけることが出ると思います。

・ たとえば会議のとき,なかなか手を挙げられない。「こんな質問をしたら笑われるかもしれない」「的外れな意見だと馬鹿にされるかもしれない」と余計なことを考え,躊躇してしまう。
・ いや,それどころか人前で軽い冗談を飛ばすことにも,ためらいを覚えてしまう。いつも自意識が自分にブレーキをかけ,その一挙手一投足をがんじがらめに縛りつけている。無邪気に振る舞うことを,わたしの自意識が許してくれないのです。

本書の特色

本書の特色は,以下に示すように,私たちが,信じてきた人生の生き方の常識を,次々と破壊し(常識へのアンチテーゼ),かつ,それに代わる生き方を提示している点に特色があります。

第1に,自分との向き合い方については,トラウマは存在しない。因果律とか過去にとらわれずに,目的に合わせて与えられた能力を使い切ることが大切である。

第2に,他人との向き合い方については,他人の課題に土足で踏み込むことをせず,他人の課題を切り捨てることによって,自分の本来の課題に向き合うようにすべきである。

第3に,社会生活においては,従来の常識とは異なるが,「叱ってはならないし,ほめてはならない」。なぜなら,それらは,縦の関係を作り出し,依存を助長するだけだからである。

第4に,人生を幸せに生きるためには,自己のありのままを受容し,他人を信頼し,他人への貢献を通じて,人生の瞬間,瞬間を生きることが大切である。

本書の課題

本書は,以上に述べたように,アドラー心理学の基礎と特色が,哲学者と青年との対話を通じて,非常にわかりやすく解説されています。

確かに,人間関係の悩みを解決するために,自分の課題と他者の課題とを切り分け,「他者の課題を切り捨てる」ことによって,人間関係は非常にシンプルなものとなりうるでしょう。

しかし,教育のように,他者との密接な関係が必要される局面で,横の関係だけで問題が解決するのでしょうか? 信賞必罰を否定して,人間関係がうまく機能するのでしょうか? さらには,競争原理を否定して,切磋琢磨は実現するのでしょうか?

より親密な関係である夫婦や親子の関係は,「他者の課題を切り捨てる」ことでは,うまくいかないと思われますが,どうなのでしょうか?

このような課題については,本書では,具体例に即した詳しい解説はなされていません。これらの課題については,実は,本書の続編である,岸見一郎=古賀史健『幸せになる勇気』ダイヤモンド社 (2016/2/26)で詳しく解説されることになるのです。

したがって,本書によって,アドラー心理学の基礎を知り,さらに,教育の実践等に応用してみたいと思うのであれば,その応用編である『幸せになる勇気』を読むことをお勧めします。関連する2冊の本を読みこなすならば,アドラー心理学の基礎と応用を身に着けることができるので,その考え方を,日常生活や,教育の現場等で使いこなせるようになると思います。

参考文献

・ 岸見一郎=古賀史健『幸せになる勇気』ダイヤモンド社 (2016/2/26)
・ 岸見一郎『アドラー心理学入門-よりよい人間関係のために』ベストセラーズ (1999/09)
・ 戸田忠雄『教えるな!-できる子に育てる5つの極意』NHK出版新書(2011)

 

判例評釈「JR東海への認知症罹患者の立入り死亡事件」(最判平28・3・1)


線路に立ち入り列車と衝突して鉄道会社に損害を与えた認知症高齢者の妻と長男の民法714 条に基づく損害賠償責任が否定された事例

(JR東海への認知症高齢者の線路立入り事件)

第1審:名古屋地裁平22(ワ)第819号,平25・8・9判決
控訴審:名古屋高裁平25(ネ)第752号,平26・4・24判決
上告審:最高裁三小平26(受)第1434号,平28・3・1判決


要約

本件は,アルツハイマー型認知症に罹患し,在宅看護を受けていた高齢者A(91歳)が,同居しているAの妻Y1(85歳)が目を離したわずかの間に徘徊をはじめ,近くの駅からX(JR東海)の列車に乗り,排尿のため次の駅で下車して,ホーム先端の施錠されていないフェンス扉を開けてそこから線路に立ち入り,列車と衝突して死亡した事案である。

Xは,列車に遅れが生じるなどの損害が生じたとして,Y1とAの長男Y2,および,Aのその他の相続人2名に対して損害賠償金719万7,740円及び遅延損害金の連帯支払を求めた。

Aの責任能力を否定し,Y1,Y2に対してXを全面勝訴させた第1審判決に対しては,老々介護に対して厳しすぎるなどの社会的な反響が生じ,控訴審は,Y1,Y2に対するXの賠償額を半額に制限する判決を下した。そして,最高裁は,Y1(高齢の配偶者),Y2(別居の長男) ともに,民法714条の監督義務者には該当しないとして,両者の責任を全面的に否定するに至っている。

ただし,最高裁の法廷意見および補足意見によると,本件のような事案の場合には,責任を負う者が全くいなくなることを考慮したためか,裁判官2名による意見(結論は同じだが,理由が異なる)が付されており,その意見においては,別居の長男Y2は民法714条の監督義務者に該当するとした上で,Y2は,監督義務者としての注意義務を尽くしているとの判断がなされている。


Ⅰ 事実関係


Aは,平成12年ころから,認知症の症状をきたすようになったため,平成14年3月頃,Y1(同居しているAの妻),Y2(別居しているAの長男),B(Y2の妻),C(Y2の妹:介護福祉士の資格を有し平成11年から特養併設の介護施設に勤務している)は,Aの介護をどうするかを話し合い,妻のY1は既に80歳であって1人でAの介護をすることが困難になっているとの共通認識に基づき,介護の実務に精通しているCの意見を踏まえ,Bが単身で横浜市から愛知県A市にあるA宅の近隣に転居し,Y1によるAの介護を補助することを決めた。

その後,Bは,A宅に毎日通ってAの介護をするようになり,A宅に宿泊することもあった。Y2は,横浜市に居住して東京都内で勤務していたが,上記の話合いの後には1箇月に1,2回程度A市で過ごすようになり,本件事故の直前の時期には1箇月に3回程度週末にA宅を訪ねるとともに,BからAの状況について頻繁に報告を受けていた。

平成19年の事故当時,Aは,アルツハイマー型の認知症が進行し,要介護4の認定を受け,トイレの場所を把握できずに所構わず排尿してしまうことがあり,Bらに何も告げずに事務所出入口から外に出て公道を経て自宅玄関前の駐車スペースに入って同所の排水溝に排尿することもしばしばあった。

また,Aは,人物の見当識障害があり,昼夜を問わず徘徊するようになり,行方不明となってコンビニエンス・ストアで保護されることが2度も生じたため,Yらは,自宅玄関付近にセンサー付きチャイムを設置し,Aがその付近を通るとY1の枕元でチャイムが鳴ることで,Y1が就寝中でもAが自宅玄関に近づいたことを把握することができるようにした。しかし,事務所出入口については,かつて本件事務所でたばこ等を販売していた頃に来客を知らせるために設置した事務所センサー付きチャイムが存したものの,長らく営業を停止していたため,その電源は切られたままであった。

その間,Yら,B及びCは,Aの介護をどうするかを話し合い,Aを特別養護老人ホームに入所させることも検討したが,介護のプロであるCが以下のような意見を述べたため,Aを引き続きA宅で介護することに決めていた。

特別養護老人ホームに入所させるとAの混乱は更に悪化する。Aは家族の見守りがあれば自宅で過ごす能力を十分に保持している。特別養護老人ホームは入居希望者が非常に多いため入居までに少なくとも2,3年はかかる。

Aは,本件事故日である平成19年12月7日の午後4時30分頃,福祉施設の送迎車で帰宅し,その後,事務所部分の椅子に腰掛け,B及びY1と一緒に過ごしていた。その後,Bが自宅玄関先でAが排尿した段ボール箱を片付けていたため,AとY1が事務所部分に2人きりになっていたところ,Bが事務所部分に戻った午後5時頃までの間に,Y1がまどろんで目を閉じている隙に,Aは,事務所部分から1人で外出した。

Aは,I駅から列車に乗り,I駅の北隣の駅であるJ駅で降り,排尿のためホーム先端の施錠されていないフェンス扉を開けてホーム下に下りた。そして,同日午後5時47分頃,J駅構内において本件事故が発生した。

Aは,本件事故当時,認知症が進行しており,責任を弁識する能力がなかった。

第1審判決は,Y1に対しては,民法709条に基づく不法行為責任を認め,また,Y2に対しては,「社会通念上,民法714条1項の法定監督義務者や同条2項の代理監督者と同視し得るAの事実上の監督者であったと認めることができ,これら法定監督義務者や代理監督者に準ずべき者としてAを監督する義務を負い,その義務を怠らなかったこと又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったことが認められない限り,その責任を免れないと解するのが相当である。」と述べて, Yらは連帯してXに対して損害賠償責任を負うと判示した。

また,第1審判決は,Xの過失等について,「Xに対し,線路上を常に原告の職員が監視することや,人が線路に至ることができないような侵入防止措置をあまねく講じておくことなどを求めることは不可能を強いるもので相当でないというべきであるから,Xに注意義務違反を認めることはできない。よって,本件の損害賠償額を定めるに当たって,職権により原告の過失を斟酌することは相当でない。」と判示した。

このように,大企業であるXには甘く,一般市民であるYらには厳しい責任を課す第1審判決に対して,Yらが控訴した。

控訴審では,「配偶者は,夫婦の協力及び扶助の義務(民法752条)の履行が法的に期待できないような特段の事情のない限り,夫婦の同居,協力及び扶助の義務に基づき,精神障害者となった配偶者に対する監督義務を負うのであって,民法714条1項所定の法定の監督義務者に該当するものというべきである。そして,Aと同居していた妻であるY1は,Aの法定の監督義務者であったといえる。」とし,「Y1は,Aが重度の認知症を患い場所等に関する見当識障害がありながら外出願望を有していることを認識していたのに,A宅の事務所出入口のセンサー付きチャイムの電源を入れておくという容易な措置をとらなかった」等の事情に照らして,Y1のみが民法714条によって損害賠償責任(過失相殺の趣旨を考慮して意,請求額の半額)を負うと判断した。

このため,Y1 及びXの双方が上告した。


Ⅱ 主たる争点及び当事者の主張


本件の争点は,Aの同居の妻であるY1,および,別居の長男であるY2 が,それぞれ民法714条1項所定の法定の監督義務者又は,同条2項のこれに準ずべき者に当たるか否か,監督義務者に当たるとすれば,Yらは,監督義務を尽くしたか,他方で,Xには,過失相殺に該当する事由があるかどうかである。

本件においては,以下のように,各審級の裁判所の見解がすべて異なっており,最高裁判決においても意見が分かれている点に大きな特色がある。

第1審判決は,一方で,Aが富裕である(5,000万円を超える金融資産を有していた)ことを考慮して,同居の妻Y1(事故当時85歳)に対しては,事故の予見可能性,結果回避可能性を認めて民法709条により責任を認め,別居の長男Y2に対しては,民法714条2項の準用により責任を認め,両者ともに損害額全額を連帯して損害する責任があるとし,他方で,X(資本金の額が1,000億円を超える日本有数の鉄道事業者)が駅のホーム突端の線路に通じる扉に施錠をせず,誰でも容易に線路上に下りられる状態を作り出したことについては,Xの過失相殺を認めなかった。

これに対して,控訴審は,別居の長男Y2については,監督者責任を否定したが,同居の妻Y1 に対しては,民法714条1項の監督責任者を認めた上で,双方の事情(Yらが相当に充実した介護体制を構築していたのに対して,Xの駅ホーム先端のフェンス扉が施錠されておれば,本件事故の発生を防止することができたと推認される事情等)を考慮して,Y1 の賠償すべき額を請求額の半額とした。

最高裁は,Yらの上告受理申立てを認め,Xの請求をすべて棄却した。


Ⅲ 判決の要旨


Y1の監督義務者該当性

民法752条は,夫婦の同居,協力及び扶助の義務について規定しているが,これらは夫婦間において相互に相手方に対して負う義務であって,第三者との関係で夫婦の一方に何らかの作為義務を課するものではなく,しかも,同居の義務についてはその性質上履行を強制することができないものであり,協力の義務についてはそれ自体抽象的なものである。また,扶助の義務はこれを相手方の生活を自分自身の生活として保障する義務であると解したとしても,そのことから直ちに第三者との関係で相手方を監督する義務を基礎付けることはできない。そうすると,同条の規定をもって同法714条1項にいう責任無能力者を監督する義務を定めたものということはできず,他に夫婦の一方が相手方の法定の監督義務者であるとする実定法上の根拠は見当たらない。

したがって,精神障害者と同居する配偶者であるからといって,その者が民法714条1項にいう「責任無能力者を監督する法定の義務を負う者」に当たるとすることはできないというべきである。

Y1はAの妻であるが(本件事故当時Aの保護者でもあった(平成25年法律第47号による改正前の精神保健及び精神障害者福祉に関する法律20条参照)。),以上説示したところによれば,Y1がAを「監督する法定の義務を負う者」に当たるとすることはできないというべきである。

Y2の監督義務者該当性

また,Y2はAの長男であるが,Aを「監督する法定の義務を負う者」に当たるとする法令上の根拠はないというべきである。

もっとも,法定の監督義務者に該当しない者であっても,責任無能力者との身分関係や日常生活における接触状況に照らし,第三者に対する加害行為の防止に向けてその者が当該責任無能力者の監督を現に行いその態様が単なる事実上の監督を超えているなどその監督義務を引き受けたとみるべき特段の事情が認められる場合には,衡平の見地から法定の監督義務を負う者と同視してその者に対し民法714条に基づく損害賠償責任を問うことができるとするのが相当であり,このような者については,法定の監督義務者に準ずべき者として,同条1項が類推適用されると解すべきである(最高裁昭和56年(オ)第1154号同58年2月24日第一小法廷判決・裁判集民事138号217頁参照)。

その上で,ある者が,精神障害者に関し,このような法定の監督義務者に準ずべき者に当たるか否かは,その者自身の生活状況や心身の状況などとともに,精神障害者との親族関係の有無・濃淡,同居の有無その他の日常的な接触の程度,精神障害者の財産管理への関与の状況などその者と精神障害者との関わりの実情,精神障害者の心身の状況や日常生活における問題行動の有無・内容,これらに対応して行われている監護や介護の実態など諸般の事情を総合考慮して,その者が精神障害者を現に監督しているかあるいは監督することが可能かつ容易であるなど衡平の見地からその者に対し精神障害者の行為に係る責任を問うのが相当といえる客観的状況が認められるか否かという観点から判断すべきである。

Yらの監督義務者適合性(結論)

これを本件についてみると,Aは,平成12年頃に認知症のり患をうかがわせる症状を示し,平成14年にはアルツハイマー型認知症にり患していたと診断され,平成16年頃には見当識障害や記憶障害の症状を示し,平成19年2月には要介護状態区分のうち要介護4の認定を受けた者である(なお,本件事故に至るまでにAが1人で外出して数時間行方不明になったことがあるが,それは平成17年及び同18年に各1回の合計2回だけであった。)。

Y1は,長年Aと同居していた妻であり,Y2,B及びCの了解を得てAの介護に当たっていたものの,本件事故当時85歳で左右下肢に麻ひ拘縮があり要介護1の認定を受けており,Aの介護もBの補助を受けて行っていたというのである。そうすると,Y1は,Aの第三者に対する加害行為を防止するためにAを監督することが現実的に可能な状況にあったということはできず,その監督義務を引き受けていたとみるべき特段の事情があったとはいえない。

したがって,Y1は,精神障害者であるAの法定の監督義務者に準ずべき者に当たるということはできない。

また,Y2は,Aの長男であり,Aの介護に関する話合いに加わり,妻BがA宅の近隣に住んでA宅に通いながらY1によるAの介護を補助していたものの,Y2自身は,横浜市に居住して東京都内で勤務していたもので,本件事故まで20年以上もAと同居しておらず,本件事故直前の時期においても1箇月に3回程度週末にA宅を訪ねていたにすぎないというのである。そうすると,Y2は,Aの第三者に対する加害行為を防止するためにAを監督することが可能な状況にあったということはできず,その監督を引き受けていたとみるべき特段の事情があったとはいえない。

したがって,Y2も,精神障害者であるAの法定の監督義務者に準ずべき者に当たるということはできない。

以上によれば,Y1の民法714条に基づく損害賠償責任を肯定した原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があり,原判決のうちY1敗訴部分は破棄を免れない。この点をいうY1の論旨は理由がある。

そして,以上説示したところによれば,第1審原告のY1に対する民法714条に基づく損害賠償請求は理由がなく,同法709条に基づく損害賠償請求も理由がないことになるから,上記部分につき,第1審判決を取消し,第1審原告の請求を棄却することとする。

他方,Y2の民法714条に基づく損害賠償責任を否定した原審の判断は,結論において是認することができる。この点に関する第1審原告の論旨は理由がないから,第1審原告のY2に対する同条に基づく損害賠償請求を棄却した部分に関する第1審原告の上告は棄却すべきである。


Ⅳ 評釈


1. 認知症に罹患した高齢者の監督義務者は誰か

精神的障害がある者について,民法714条の監督義務者が誰になるかの問題は,もしも,特別法に該当する規定がある場合には,それに従って監督義務者が決定されるし,民法上も,成年後見の審判がなされていれば,成年後見人が監督義務者となるとされている。

しかし,本件のように,成年後見の審判もなされておらず,特別養護老人ホームへの入所もせずに,在宅看護をしている場合に,民法714条の監督義務者が誰になるのかは,明らかではない。

最高裁は,前記「Ⅲ判決の要旨」の下線部分で示した一般法理を援用しつつ,法廷意見は,Yらについては,第三者に対する加害行為の防止に向けてその者が当該責任無能力者の監督を現に行いその態様が単なる事実上の監督を超えているなどその監督義務を引き受けたとみるべき特段の事情がないとして,Yらは,監督義務者ではないとした。

しかし,結論は同じものの,理論を異にする岡部裁判官の意見は,「Y2は,Aが2回の徘徊をして行方不明になるなど,外出願望が強いことを知って徘徊による事故を防止する必要を認めて,BがAの外出に付き添う方法を了承し,また施錠,センサー設置などの対処をすることとして事故防止のための措置を現実に行い,また現実の対策を講ずるなどして,監督義務を引き受けたということができる。徘徊による事故としては被害者となるような事故を念頭に置くことが多いであろうがその態様には第三者に対する加害も同時に存在するものであって,第三者に対する加害防止もまた引き受けたものということができる。」として,多数意見のいう「特別の事情」の存在をみとめて,Y2は,民法714条1項の法定の監督義務者に準ずべき者といえると判示している。

同居の配偶者だからとか,相続人だからだとか,成年後見制度を利用していたら成年後見人に就任していたとかなどの,画一的な判断とは異なり,岡部裁判官の意見における民法714条の監督義務者の判断基準は,画一的ではない上に,その基準が「第三者に対する加害を防止することまでを引き受けたといえるかどうか」という明確なものであり,今後の認知症罹患者の徘徊による事故に関する監督義務者の判断について,最も適切な判断基準をしめしたものとして,高く評価できる。

2. 認知症に罹患した高齢者に監督義務者が存在する場合の責任の所在

しかし,岡部意見に従って,Y2が民法714条1項の監督義務者に準じる者と考えた場合には,岡部意見,または,大谷意見(Y2が法定の監督義務者であるとする点で岡部意見と異なるが,Y2が監督義務を尽くしたという点では同じである)にもかからず,Y2の免責の立証は十分とはいえないように思われる。

介護のプロフェッショナルであるCの助言に従ってとはいえ,特別養護老人ホームへの入所を断念し,在宅看護による看護体制を選択して,「第三者に対する加害防止もまた引き受けた」のであれば,それに相応する注意義務を尽くす必要がある。このように考えると,本件事故以前に,Aが事務所の出入り口から徘徊して保護されたことがある以上は,Y2が,事務所の出入り口を施錠せず,そこに設置されたセンサー付チャイムの電源を切ったままに放置したのは,注意義務に違反しているといわざるを得ないであろう。

そうだとすると,Y2の監督者責任を認めつつ,鉄道会社として,第三者に対する加害防止を引き受けているXが,駅のホーム突端の線路に通じる扉に施錠をせず,誰でも容易に線路上に下りられる状態を作り出していたことは,控訴審が明らかにしていたように,「駅ホーム先端のフェンス扉が施錠されておれば,本件事故の発生を防止することができたと推認される」のであり,過失相殺,または,過失相殺の趣旨の類推に値するものであって,賠償額を大幅に減額することで,問題を解決するのが適切であったように思われる。

3. 徘徊事故を未然に防止するための責任のあり方

本件事故は,認知症に罹患したAが徘徊を始めるようになって以降,同居の高齢の配偶者Y1では,徘徊をとめることができず,Y2の妻Bが徘徊に付き添うことにも限界が生じていたのであるから,Y2は,Aが裕福であること考慮して,在宅看護だけに頼らず,特別養護老人ホームへの入所手続きを始めるべきであった。介護のプロフェッショナルとはいえ,相続人の一人であって利益相反関係にあるCの助言に従って特別養護老人ホームへの入所手続きを断念したことが,今回の事故につながる遠因となった。

しかも,最高裁の法廷意見によれば,Y1も,Y2も民法714条の監督義務者に該当しないというのであり,しかも,両者とも,「第三者に対する加害行為の防止に向けて…危険を引き受けている」わけではないというのであるから,最高裁の法廷意見によれば,Yらの介護体制は,それぞれが,民法697条以下の事務管理者としてAの介護に当たったと解釈せざるを得ない。

Yらが,事務管理者であるとすれば,Yらは,本人の意思を知ることができるときは,本人の意思に従って,外出に付き添い(民法697条2項),本人の意思を知ることも,推知することもできないときは,「最も本人の利益に適する方法」によってその事務を管理しなければならない(民法697条1項)。

すなわち,本件のような,認知症に罹患した高齢者による徘徊行為に基づく事故は,在宅看護を引き受けるのであれば,相続人のそれぞれが,相続財産を確保するという自 己の利益を図るのではなく,高齢者の意思を尊重し,意思を知ることも推知できなくなったときは,「最も本人の利益に適合する方法」として,徘徊に付き 添うか,すべての出入り口の施錠,または,センサーつきのチャイムを作動させるという方法を選択するか,それが限界に達している場合に は,特別養護老人ホーム等への入所手続きを開始し,十分な介護と第三者への加害行為を防止を両立させることが必要であったと思われる。

他方で,Xは,控訴審判決が明確に述べているように,資本金の額が1,000億円を超える日本有数の鉄道事業者であり,「Xが営む鉄道事業にあっては,専用の軌道上を高速で列車を走行させて旅客等を運送し,そのことで収益を上げているものであるところ,社会の構成員には,幼児や認知症患者のように危険を理解できない者なども含まれており,このような社会的弱者も安全に社会で生活し,安全に鉄道を利用できるように,利用客や交差する道路を通行する交通機関等との関係で,列車の発着する駅ホーム,列車が通過する踏切等の施設・設備について,人的な面も含めて,一定の安全を確保できるものとすることが要請されている」のであるから,Xも,「駅での利用客等に対する監視が十分になされておれば,また,J駅ホーム先端のフェンス扉が施錠されておれば,本件事故の発生を防止することができたと推認される事情もあった」以上,本件事故の責任の多くの部分を負担すべきである。

鉄道事業者は,立入り事故について,本件のように遺族等に損害賠償請求をするのではなく,自らの社会的責任として,線路への人の立入りの防止策を進めるとともに,今後は,頻繁に生じている踏切事故の防止を緊急の課題とすべきであり,道路と交差する箇所は,順次,高架,または,地下にすることによって,踏切そのものを撤廃することを目標として掲げることが,鉄道事業者の社会的責任の中でも,最も重要な課題であるように思われる。

4. 結論

本件におけるAの看護体制とは,Aの相続人を中心にして,Y2の妻Bが加わって形成された一種の組合と考えるべきではないだろうか。そのように考えると,その実質的な代表者であるY2が,単に長男だからと言う理由ではなく,責任無能力者であるAの監督義務者,または,監督義務者に準じる者と考えることが可能となる。

このように考えると,最高裁判決の岡部・大谷「意見」が述べているように,Y2を民法714条の監督者,または,これに準じるものと考えるべきであり,しかも,これらの「意見」とは異なり,Y2に過失がある以上,Xによる責任の追及が可能であると考えるべきである。ただし,X自身にも重大な過失があるため,控訴審判決のように,Xの請求を大幅に減額するというのが,妥当な結論であると思われる。

債務不履行と帰責事由との関係(履行不能のドグマの解消=債務不履行法・革命)


債務(契約)不履行と帰責事由との関係


目次
Ⅰ 問題の所在
Ⅱ 債務不履行の効果と帰責事由との関係
1.債務不履行責任のうち,損害賠償責任についてのみ,帰責事由(故意または過失)が必要とされるのはなぜか?
2.帰責事由(故意または過失)は,損害賠償責任の要件ではないとする最近の有力説(潮見説)の矛盾
Ⅲ 履行不能のドグマの消滅(履行遅滞および履行拒絶による履行不能概念の吸収・消滅)
1.民法415条第2文(履行不能の部分)は必要か?
2.民法543条但し書き(履行不能の場合の解除の障害要件)は必要か?
 結論
Ⅴ 参考文献


Ⅰ 問題の所在


わが国の債務不履行は,民法415条第1文は,債務不履行の一元説を採用した非常によくできた規定なのですが,その2文(下線部分)で,「履行不能」を特別扱いしているために,「履行不能のドグマ」によって理論的な混乱が生じる原因を作り出してきました。

第415条(債務不履行による損害賠償)
債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは,債権者は,これによって生じた損害の賠償を請求することができる。
債務者の責めに帰すべき事由によって履行をすることができなくなったときも,同様とする。

なお,「履行不能のドグマ」とは,広義では,債務不履行の類型の中で,「履行不能」だけを特別扱いすることをいい(上記の民法415条の第2文の下線部,次に述べる民法543条の但し書きがその典型例),狭義では,債務者に帰責事由がない場合において,「履行不能」を債務不履行の一般法理の適用から除外する以下のような法理のことをいいます。

1.原始的不能の場合は,債務不履行の問題ではなく,無効の問題とする。
(1) 原始的全部不能の場合は,契約を無効とする(ドイツ民法第306条がこの立場をとっていたが,債務法改正によって,無効ではなく,債務不履行とすることに改正された)。
(2)  原始的一部不能の場合は,一部無効の問題とし,法定責任としての瑕疵担保責任を適用する(わが国の従来の通説の見解。現在では,少数派となっている)。
2.後発的不能の場合は,債務不履行ではなく,危険負担の問題とする。
(1) 後発的全部不能の場合は,危険負担における目的物の滅失として処理する。
(2) 後発的一部不能の場合は,危険負担における目的物の損傷として処理する。

また,民法543条但し書き(下線部分)は,「契約の目的を達することができない」場合であって,本来の契約解除の要件を満たしているはずの「履行不能」の場合であっても,債務者に帰責事由がない場合には,契約の解除を認めていません。

第543条(履行不能による解除権)
履行の全部又は一部が不能となったときは,債権者は,契約の解除をすることができる。ただしその債務の不履行が債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは,この限りでない

しかも,現行民法の中で,最も不合理な規定である民法534条(下線部分)から始まる危険負担の問題として処理することにしたため,債務不履行に関する効果について,大きな混乱を生じさせる原因を作り出してきました。

第534条(債権者の危険負担)
①特定物に関する物権の設定又は移転を双務契約の目的とした場合において,その物が債務者の責めに帰することができない事由によって滅失し,又は損傷したときは,その滅失又は損傷は,債権者の負担に帰する
②不特定物に関する契約については,第401条〔種類債権〕第2項の規定によりその物が確定した時から,前項の規定を適用する。

そこで,本稿は,以下の二つの方向性を推進することによって,「履行不能のドグマ」を完全に解消し(すなわち,上記の条文の下線部分をすべて削除するのと同様の結果をもたらす解釈論を展開する),もって,わが国の債務不履行法をシンプルで国民一般にとってわかりやすくすることを試みることにします。

・ 一方で,民法(債権法)改正案によって,危険負担の債権者主義を採用してきた悪名高い民法534条,535条の削除が実現される予定となったことを契機として,この考え方を推し進めます。すなわち,「履行不能」も債務不履行のひとつに過ぎないのであり,これを特別扱いせず,債務者に帰責事由がない場合に,これを危険負担の問題として,解除を認めないとする考え方を廃し,債務者に帰責事由がない場合であっても,「契約をした目的を達することができないとき」は,債務不履行の一般原則に従って,常に,契約の解除を認めることにします。

・ 他方で,民法(債権関係)改正案が「履行拒絶」という概念を採用し,「履行遅滞」と「履行拒絶」によって,定義が困難な「履行不能」概念を不要とすることが可能になりました。それにかかわらず,民法(債権関係)改正案の立法者が,「履行不能」の概念に固執したために,第1に,債務不履行概念間の重複と矛盾,第2に,「社会通念」という無意味な概念による「履行不能」の定義(改正法案第412条の2),および,「帰責事由」の定義(改正案第415条1項但し書き)に伴う混乱など,債務不履行理論の混迷がいっそう深まるおそれがあります。
・ そこで,本稿では,履行遅滞(債務者に履行の意思がある場合)と履行拒絶(債務者に履行の意思がない場合)という二つの明確な概念によって,「履行不能」の概念を吸収・消滅させ,「履行不能」の概念自体を不要とすることを試みることにします(債務不履行法・革命)。


Ⅱ 債務不履行の効果と帰責事由との関係


1.債務不履行責任のうち,損害賠償責任についてのみ,帰責事由(故意または過失)が必要とされるのはなぜか?


債務不履行とほぼ同義の契約不履行の効果は,以下の3つに分類されています。

・第1に,契約の拘束力そのままに履行の強制を認めるという効果(民法414条)。
・第2に,契約の拘束力そのものを否定して,当事者を契約の拘束力から解放すること,すなわち契約の解除を認めるという効果(民法540条~548条)。
・第3に,契約の拘束力をみとめつつも,その拘束力を変形して,金銭による損害賠償を認めるという効果(民法415条)。

これらの効果が認められるために,その要件として帰責事由が必要なのかどうか,それぞれの効果ごとに分析を試みることにします。

(1) 強制履行には,帰責事由は不要である(通説と同じ)

帰責事由との関係では,契約の拘束力をそのまま認める効果である強制履行に関しては,そもそも,帰責事由は問題になりません。なぜなら,契約の本旨に従った履行を求めるに過ぎないのであるからです。

したがって,履行期に任意の履行がなければ,債務者の帰責事由の有無とは無関係に履行の強制を求めることができます。

(2) 契約の解除にも,帰責事由は不要(新しい考え方)

契約の解除は,契約の拘束力そのものを否定するものですから,その要件は,契約の拘束力を認めることが無意味になったこと,すなわち,契約利益の喪失,または,契約目的の不達成がその要件となります。

履行強制の場合と同様,契約の解除の場合にも,債務者の帰責事由は問題となりません。債務者に帰責事由が存在してもしなくても,契約が意味を失った場合には,その拘束力から契約当事者を解放することが必要だからです。したがって,契約解除の場合には,帰責事由とは無関係に契約の解除が認められます。

これが,民法(債権関係)改正案をはじめ,世界的に主流となりつつある新しい考え方です。ところが,従来のわが国の民法の条文,および,学説は,契約解除の場合であっても,民法543条但し書きの規定に従って,債務者に帰責事由なない場合には,契約解除ができないと考えてきました。

しかし,債務者に帰責事由がない場合においては,民法534条以下の危険負担の規定が適用されるのであり,危険負担の原則規定(民法536条)に従うと,債権者に帰責事由がない場合には,民法536条1項によって,債権者は反対給付を受けることができないのですから,その結果は,契約解除が認められたのと同じです。

第536条(債務者の危険負担等)
①前2条に規定する場合を除き,当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付を受ける権利を有しない
②債権者の責めに帰すべき事由によって債務を履行することができなくなったときは,債務者は,反対給付を受ける権利を失わない。この場合において,自己の債務を免れたことによって利益を得たときは,これを債権者に償還しなければならない。

例外的に,債権者だけに帰責事由がある場合には,上記のように,民法536条2項が適用されるため,契約解除が認められないのと同様の結果が生じます。

しかし,その結果は,契約解除の規定においても,民法548条第1項(解除権の行為等による解除権の消滅)の規定によってカバーされているので,結局のところ,危険負担の原則である民法536条の規定は,民法540条~548条の解除の規定によって,吸収されてしまいます。

第548条(解除権者の行為等による解除権の消滅)
解除権を有する者が自己の行為若しくは過失によって契約の目的物を著しく損傷し,若しくは返還することができなくなったとき,又は加工若しくは改造によってこれを他の種類の物に変えたときは,解除権は,消滅する
②契約の目的物が解除権を有する者の行為又は過失によらないで滅失し,又は損傷したときは,解除権は,消滅しない。

このように考えると,債務者に帰責事由がない場合でも,解除を認めたのと同様の結果が生じていることがわかります。すなわち,債権者のみに帰責事由がある場合であっても,解除権は発生しますが,民法548条に該当する場合には,いったん発生した解除権が消滅すると考えることになります。

このようなシンプルで一貫した解釈の障害となっていたのは,履行不能が生じたとしても,債務者の帰責事由がない場合には,債権者は,なお,反対給付の請求できるとし,契約解除を認めるのとは反対の結論をとっていた,民法534条,535条の規定です。

しかし,これらの規定は,民法(債権関係)改正案によれば,すべて削除されることになっているため,将来的には,履行不能が債務者の帰責事由なしに生じた場合であっても,解除を認めるという考え方をとることに,障害はなくなります。

民法(債権関係)改正案(2015年3月31日国会提出法案)
第534条(債権者の危険負担) 削除
第535条(停止条件付双務契約における危険負担) 削除

したがって,現行法の解釈を含めて,現在の新しい学説においては,履行不能の場合についても,「危険負担における債権者主義」については,これを極力制限的に解釈し,契約解除に関しては,債務者の帰責事由の有無は問題とならず,契約解除ができるかどうかは,債務不履行によって,「契約をした目的を達することができない」(民法542条,566条1項の文言参照)状態となっているかどうかだと解釈することができます。

すなわち,契約解除の統一的な要件は,契約不履行によって,「契約をした目的を達することができない」場合のみであるということができます。つまり,次に述べる損害賠償の場合とは異なり,契約解除の場合には,帰責事由は解除の要件から完全に脱落させることができます。

(3) 損害賠償の場合にのみ,例外的に,帰責事由が必要(通説と同じ)

通常は,債務不履行とは,契約不履行に限定して考えられています。このため,不法行為に基づく損害賠償責任は,債務不履行には含まれないと一般に考えられています。しかし,民法におけるパンデクテン方式の理論を厳密に適用すると,民法415条は,債権各論を含む総論に位置しているのですから,債務不履行責任には,不法行為に基づく損害賠償責任も概念上は含まれていることになり,それゆえに,債務不履行に基づく損害賠償責任には,債務者(加害者)に帰責事由(故意または過失)が必要であると考えることができます。

契約不履行に基づく損害賠償の場合に,帰責事由が必要であると考えられてきた理由は,契約不履行に基づく損害賠償請求は,債務の本旨に従った履行に代えて,金銭での履行を求めるものであり,このことを契約の拘束力だけでは説明できないからです。

むしろ,契約不履行に基づく損害賠償責任は,契約の拘束力そのものからは生じないのであって,不法行為に基づく損害賠償の場合と同様に,債務者を非難するに値する事由としての帰責事由(故意,または,過失)が必要と考えるべきでしょう。


2.帰責事由(故意または過失)は,損害賠償責任の要件ではないとする最近の有力説(潮見説)の矛盾


ところが,最近では,債務(契約)不履行責任のうち,損害賠償責任と帰責事由との関係について,債務(契約)不履行に基づく損害賠償責任を追及するには,契約自体から生じる拘束力とは別の意味での帰責事由(故意または過失)は必要ではなく,契約の拘束力自体から説明できるとする説,すなわち,契約によって債務者は債務不履行から生じる危険を引き受けており,その危険が発生した以上,債務者の帰責事由(故意または過失)とは無関係に,契約の拘束力自体から,債務者が損害賠償責任を負う理由を説明できるとする以下のような説が有力に主張されています。

契約上の債務につき,債務者の行動自由の保障を基礎に吸えた過失責任の原理は,もはや損害賠償を正当化する原理としての地位を滑り落ちる。それに代わって,ここでは,契約の拘束力を損害賠償の正当化原理として基礎に据え,「債務の本旨に従った履行をしなかった債務者は,契約を守らなかったことを理由に,債権者に生じた損害を賠償する責任を負わなければならない」というのが適切である。([潮見・債務不履行の帰責事由(2016)640-641頁])

(1) 債務の本旨に従った履行請求と,損害賠償請求とは性質が異なる

しかし,先に述べたように,債務不履行に基づく損害賠償責任は,債務の本旨に従った履行の請求ではなく,それに代えて,債務者に金銭による損害賠償債務を負担させるものであり,契約の拘束力からだけでは導くことはできないのです。そのことを端的に示しているのが,民法419条第3項の規定です。

第419条(金銭債務の特則)
金銭の給付を目的とする債務の不履行については,その損害賠償の額は,法定利率によって定める。ただし,約定利率が法定利率を超えるときは,約定利率による。
②前項の損害賠償については,債権者は,損害の証明をすることを要しない。
③第1項の損害賠償については,債務者は,不可抗力をもって抗弁とすることができない

金銭債権の場合,その債務不履行に基づく損害賠償(法定利息)と,もともとの本旨に従った履行とは,同じ金銭債権であって,厳密な区別は不要です。したがって,金銭債権の場合には,債務不履行が生じた場合に,その損賠償責任は,もともとの債務の履行強制(帰責事由は必要としない)と同様に扱ってよいことになります。したがって,民法419条は,金銭債権の場合の損害賠償責任には,帰責事由は要件とならず,したがって,「不可抗力をもって抗弁とすることができない」と規定しているのです。

《以下,追加》(2016/5/27)
なお,本来の金銭債権の履行と,金銭債権に遅滞分の法定利率に基づく利息を付加した損害賠償請求は,性質が異なるのではないかとの疑問が生じるかもしれません。しかし,この点については,現在の価値と将来の価値とを変換する「現価(現在価値)」という概念を介在させると,両者の等質性を理解することができます。

たとえば,逸失利益は,将来的に生じる損害を現在価値に変換したものをいうのですが,その際には,逸失利益は,将来価値を法定利率で割り引くという手続きに従って,算定されます。これを中間利息の控除といいます。反対に,現在支払うべき価値を将来に支払う,遅延損害の場合には,現在価値を法定利率で割り増すという手続きに従って,算定されます。これが,金銭債権における損害賠償の意味です。

したがって,逸失利益における中間利息控除と中間利息の控除との両者を等質のものとして認めるのであれば,金銭債権の遅延賠償と債権額を法定利率で割り増すことの両者をも,等質のものとして認めるべきです。
《追加,終了》(2016/5/27)

 (2)  帰責事由と「故意または過失」とは,同じことである

このように考えると,金銭債権の例外を除いて,債務の本旨の履行請求と,債務不履行を非難して金銭債権の支払いへと転化させる損害賠償請求(金銭債務の履行)とは性質が異なることが,理解できます。したがって,債務の履行請求の場合とは異なり,債務不履行に基づく損害賠償請求権(金銭債務の履行請求)の成立には,債務不履行に加えて,債務者に対する非難可能性としての帰責事由が必要であることがわかります。そして,帰責事由とは,不法行為に基づく損害賠償請求権の要件における「故意または過失」であると考えるのが,従来の通説であり,それをあえて変更する必要はありません。

たしかに,潮見説は,民法(債権関係)改正中間試案の補足説明」に即して,帰責事由と「故意または過失」とは異なるとして,その理由を以下のように述べています([ 潮見・債務不履行の帰責事由(2016)646頁])。

裁判例の分析を通じて,裁判実務においても,「債務者の責めに帰すべき事由」が,債務者の心理的な不注意契約を離れて措定される注意義務の違反といった,本来の意味での過失として理解されていないことが指摘されている。

そして,部会の審議においても,契約による債務の不履行による損害賠償につき免責を認めるべきか否かは,契約の性質,契約をした目的,契約締結に至る経緯,取引通念等の契約をめぐる一切の事情から導かれる契約の趣旨に照らして,債務不履行の原因が債務者においてそのリスクを負担すべき立場にはなかったと評価できるか否かによって決せられるとの考え方が,裁判実務における免責判断の在り方に即していることにつき,異論はなかった。

しかし,以上の見解は,従来の不法行為に基づく損害賠償請求における過失概念を曲解するものであって,とうてい賛成できるものではありません。

なぜなら,現在における不法行為学説においては,潮見説を含めて,過失を「単なる心理的な不注意」であるとする説はもはや存在しませんし([潮見・不法行為法Ⅰ(2009 )277-278頁]),契約責任と不法行為責任とが競合する場合(たとえば,医療過誤訴訟など)における過失の認定において,「契約を離れて措定される注意義務の違反」を過失と考える学説も現存しないからです([潮見・不法行為法Ⅰ(2009 )332-333頁])。

契約と不法行為とが競合する不法行為事件(たとえば,医療過誤に関する不法行為事件)の場合には,裁判実務においても,過失を判断するに際して,「契約(たとえば診療契約)の性質,契約をした目的,契約締結に至る経緯,取引通念等の契約をめぐる一切の事情(たとえば,医療水準)から導かれる契約の趣旨に照らして」,不法行為者(債務者)の注意義務違反としての過失の判断がなされているのであって,不法行為における過失の意味を「契約を離れて措定される注意義務の違反」解する見解は,もはや存在しません。

それにもかかわらず,債務(契約)不履行に基づく損害賠償責任を契約の拘束力から導き出そうとする考え方は,以下に述べるように,損害賠償責任の制度趣旨に反するばかりでなく,論理的矛盾に陥ることになります。

(3) 損害賠償責任は「契約の拘束力」からだけでは説明できない

第1に,先に述べたように,契約の拘束力は,債務の本旨に従った履行がない場合にそれを強制する場合にのみ妥当します。これとは異なり,債務の本旨に従った履行の代わりに,損害賠償を請求する場合には,その要件として,不法行為に基づく損害賠償の場合と同様に,債務者に対する非難可能性の要件として,帰責事由(故意または過失)が必要となると考えるべきです。

たとえば,金銭での支払いを望まない当事者が物々交換の契約をしたとしましょう。一方の当事者が契約不履行をした場合に,契約の拘束力とか,契約の趣旨から,当事者が避けようとした金銭の支払い,すなわち,金銭による損害賠償をするという拘束力を説明できるのでしょうか。金銭賠償を義務付けるには,契約不履行に陥った債務者に故意または過失があるという帰責事由が必要だと思われます。

したがって,債務者に帰責事由がない場合,すなわち,債務者が契約の本旨に従って相当な注意を払って行動している場合には,債務者には,非難可能性はなく,債務の本旨に従った履行に代わる損害賠償責任を追及することはできません。

契約不履行に基づく損害賠償責任は,債務者に非難可能性がある場合にのみ効果を生じるものであり,債務の本旨に従った履行責任,すなわち,契約の拘束力とは,その制度趣旨を異にしています。

(4) 天変地異の場合の損害賠償責任の免責は,債務者に帰責事由がないからであって,債務者が危険を引き受けているかどうかとは無関係

第2に,債務者に帰責事由(故意または過失)がない場合,たとえば,天変地異の場合には,債務者は債務不履行責任を免れることについては,最近の有力説も,異論を唱えていません。

しかし,天変地異について,落雷によって損害が発生した場合はどうか,震度5の地震によって損害が発生した場合はどうか,さらに,震度5の地震が何度も繰り返された場合はどうか,震度6の地震の場合はどうか,それが繰り返し生じた場合はどうか,震度7の地震の場合はどうか,震度8の地震の場合はどうか,震度9の地震の場合はどうかというように細かく見ていくと,当事者がどの場合についてまで危険の引き受けをしていたかどうかは,ほとんどの場合に不明であり,この場合には,従来の帰責事由(故意,または,過失)の判断基準による方が,具体的に妥当な結論を導きだすことができます。

危険の引き受けが明確な場合には,通常は,保険を付保するか,損害賠償額の予定をするのであって,その場合には,それ以外に危険の引受けに基づく損害賠償責任は問題となはならないでしょう。

(5) 債務者に帰責事由がない場合に損害賠償責任の免責を認めつつ,帰責事由をその要件として認めないのは論理矛盾

第3に,天変地異の場合に,債務者が免責されるのは,債務者に帰責事由(故意または過失)がないからであると考えないと,要件事実に関する理論に破綻が生じます。

その理由は,天変地異の場合のように,帰責事由(故意または過失)がない場合に,債務者の免責を認めるのであれば,その理論的帰結として,債務不履行に基づく損害賠償責任には,帰責事由(故意または過失)が要件となることを認めざるを得ないからです。

先にも述べたように,債務の履行責任と損害賠償責任との性質が同一である金銭債権の場合には,帰責事由は,損害賠償の要件となりません。金銭債権以外の債権について,不可抗力の場合,すなわち,債務者に責めに帰すべき事由がない場合に損害賠償責任を負わないのは,損害賠償責任と債務の本旨に従った履行責任とが,その性質を異にするからです。


Ⅲ 履行不能のドグマの消滅(履行遅滞および履行拒絶による履行不能概念の吸収・消滅)


債務不履行の効果に関する分析によって,債務不履行の効果のうち,帰責事由が問題となるのは,損害賠償責任の場合だけであり,損害賠償責任に帰責事由が必要とされる理由は,損害賠償責任が,債務者を非難して,債務の本旨の履行とは異なる,損害賠償を求めるものだからであることが明らかとなったと思います。

先に述べたように,わが国の現行民法も,また,従来の学説も,債務不履行のうち,履行不能だけを別扱いにして,履行不能の場合には,損害賠償責任の場合ばかりでなく,契約解除の場合にも,解除の要件として,帰責事由を要求してきました。

しかし,この考え方は,民法(債権関係)改正案による危険負担の規定(民法534条,535条)の削除を通じて克服されつつあり,現行法の解釈としても,履行不能の場合には,帰責事由がない場合であっても,民法536条第1項の解釈を通じて,契約解除ができるのと同じ結果を導くことが可能となっています。

つまり,契約解除の要件は,先に述べたように,「契約をした目的を達することができない」場合であり,かつ,その場合に限るのですから,履行不能の場合には,常に,契約解除ができることになるのです。なぜなら,履行不能は,常に,「契約をした目的を達することができない」場合に該当するからです。

このように考えると,危険負担の規定が,契約解除の規定によってすべて吸収されるのと同様に,履行不能の規定も,すべて,履行遅滞の規定に吸収される可能性があります。そうすると,民法415条第2文の規定も,また,民法543条但し書きの規定は,もはや,不要であって,削除すべきではないかとの疑問が生じることになります。

1.民法415条第2文(履行不能の部分)は必要か?

民法415条第1文は,債務不履行を「債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき」として,一元的に定義した世界に誇るべき規定です。

ところが,従来の見解によると,債務の本旨に従った履行をしないときとは,具体的には,(1) 履行遅滞,(2) 履行不能,(3) 不完全履行の三つに分類されてきました。

しかし,危険負担における債権者主義の規定が削除されることが明らかになりつつある現在において,履行不能を特別視する必要も,なくなりつつあります。

Non-Performance1s

その理由は,以下の通りです。

第1に,履行不能かどうかは,時代の変遷によって変化し,定義することが困難です。たとえば,従来は,船舶で輸送していた商品について,その船舶が沈没した場合には,履行不能が生じると考えられてきました。しかし,サルベージ技術が発達した今日においては,船舶を含めて海底から引き上げることが容易となっており,費用の低下を含めて,必ずしも,履行不能とはいえないようになっています。また,修復技術の発達により,これまで,履行不能と考えられてきた場合についても,履行が可能となりつつあります。さらに,3D プリンタが進化すれば,完全に滅失した商品についても,設計図さえあれば,再生させることも可能となるでしょう。このように考えると,履行不能を厳密に定義することは不可能に近いことがわかります。

第2に,履行不能は,債権者が主張・立証すべき証明主題であるが,履行不能の事実は,通常,第三者,または,債務者の危険領域で生じるので,債権者が履行不能を証明することは,非常に困難です。

しかし,そもそも,債権者が債務不履行を証明する必要は存在しないのです。なぜなら,債権者は,履行遅滞を主張・立証すれば,定期行為の場合には,即時に解除ができるし(民法542条),そうでない場合でも,相当の期間を定めて催告をし,それでも履行がなければ,契約の解除ができるからです(民法541条)。しかも,債務不履行が,履行不能に該当する場合であれ,履行拒絶に該当する場合であれ,それらの事情とは無関係に契約を解除することができますし,契約解除をせずに,遅延賠償,および,填補賠償を請求することもできます。したがって,債権者にとって,履行不能を主張・立証する必要は皆無なのです。

さらに,従来ならば,債務者に帰責事由がない場合には,債務者が履行不能を主張・立証すれば,契約解除を免れることができましたし,しかも,民法534条が適用される場合には,目的物の引渡しができないにもかかわらず,債務者は,反対給付を取得することまで可能でありました。

ところが,民法(債権関係)改正を通じて,民法534条は削除されることになり,債務者の帰責事由は,契約解除の要件としては不要となるのですから,債務者にとっても,履行不能を主張・立証する利益はなくなっています。

第3に,民法(債権関係)改正によって,債務不履行の三分類に加えて,履行拒絶が明文で規定されることになると,履行不能の要件は,理論上も不要な概念となってしまいます。

Non-Performance2s

なぜなら,履行不能は,履行遅滞(履行期に履行がないが,債務者は遅れてでも履行しようとする履行の意思がある場合),または,履行拒絶(履行期に履行がなく,債務者に履行する意思がない場合)のいずれかに吸収され,履行不能の概念自体が,独立性を失っているからです。


2.民法543条但し書き(履行不能の場合の解除の障害要件)は必要か?


先に述べたように,現在においても,また,民法(債権関係)改正が実現した場合においては,なおさらのこと,債権者にとっても,また,債務者にとっても,履行不能を主張・立証する利益は存在しません。しかも,履行不の野概念自体が,履行遅滞,または,履行拒絶に吸収されるのですから,民法において,履行不能について規定する必要性はなくなってしまいます。

このように考えると,将来的には,債務不履行の定義は,民法415条の1文のみで足り,第2文は不要な規定として削除されるべきです。また,危険負担の債権者主義に該当する民法534条,545条が削除されるばかりでなく,履行拒絶概念が民法に明文で規定されることになるため,履行不能の概念は,履行遅滞,または,履行拒絶に完全に吸収されることになるため,民法543条但し書きも不要となって,削除されるべきことになります。

Non-Performance3

以上のプロセスを通じて,わが国の民法における債務不履行責任は,上の図のように,非常にシンプルでわかり安いものへと革新することができることが理解できたと思います。


Ⅳ 結論


以上の考察を通じて,第1に,わが国の債務不履行法について,これまで,特別扱いを受けてきた「履行不能概念」を解消し,履行遅滞と履行拒絶とに吸収させることで,単純明快なものとなることを論証することができたと思います。第2に,債務者の「帰責事由」の要件についても,その要件は,損害賠償責任についてのみ必要であり,債務不履行と帰責事由とは独立の関係にあることも論証することができたと考えます。

これまでの債務不履行法は,債務者に帰責事由がない場合において,以下のような履行不能のドグマに害され,複雑怪奇な理論へと陥っていました。

原始的全部不能の契約は,債務不履行ではなく,無効である
・ドイツ債務法改正によって,全面的に改正されたドイツ民法306条によって,わが国の民法学説は,長くにわたって呪縛され,債務不履行の理論が複雑怪奇となっていた。
原始的一部不能の契約は,債務不履行ではなく,一部無効の理論に基づく法定責任である。したがって,瑕疵担保責任は,不完全履行の問題ではなく,無過失責任としての,法定責任である。
後発的不能の場合,債務者に帰責事由が場合には,債務不履行が問題となるが,債務者に帰責事由がない場合には,債務不履行の問題ではなく,危険負担の問題となり,契約の解除は問題とならない。

この点,債務不履行に関する新しい理論によれば,以上のような債務不履行理論についてのさまざまな制約は解消され,以下のような,シンプルでわかりやすい体系へと進化することができるでしょう。

第1に,債務不履行は,「債務の本旨に従った履行をしなこと」として,現在の民法415条第1文だけで定義されますし,損害賠償責任における債務者の「帰責事由」の必要性についても,履行不能を特別扱いしない但し書にすることで,明確にすることができます。

第415条(債務不履行による損害賠償)(加賀山改正私案)
債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは,債権者は,これによって生じた損害の賠償を請求することができる。
ただし,その損害が,債務者の責めに帰すべき事由によるものでないときは,この限りでない。

第2に,債務履行の三分類については,履行期に履行がない場合としての (1) 履行遅滞(債務者に履行の意思がある場合)と (2) 履行拒絶(債務者に履行の意思がない場合),および,履行期に履行があるが,(3) 履行が不完全(履行に瑕疵がある)場合に整理され,「履行不能」は不要となります。その結果,債務不履行に関して,これまで生じていた概念の重複も,遺漏もなくなります。

第543条(履行不能による解除権)(加賀山改正私案)
履行の全部又は一部が不能となったときは,債権者は,契約の解除をすることができる。ただし,その債務の不履行が債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは,この限りでない。

第3に,債務不履行の効果は,従来どおり,強制履行,契約解除,損害賠償の三つですが,その要件は,それぞれ,以下のように異なります。

履行強制(債務の本旨に従った履行を求めるもの)
・履行を強制をすることが不適切な場合(作為債務の場合のように,履行の意思がない債務者に履行を強制することが人権を侵害するおそれがあるとか,ほかの手段によって容易に履行が可能である場合など)を除き,債務者に帰責事由があるかないかを問わず,債権者は,裁判所を通じて,債務者に対して履行を強制できます。
契約解除(目的不達成の契約の拘束力から当事者を解放するもの)
・債務不履行によって,契約をした目的を達することができない場合に限って,債権者は,契約の解除をすることができます。この場合,債務者に帰責事由があるかどうかは,問題となりません。
損害賠償(債務の本旨に従った履行の代わりに,金銭債務の履行を求めるもの)
・債務者に帰責事由がある場合には,損害賠償責任が課せられ,債務者に帰責事由がない場合には,債務者は,損害賠償責任を免れます。
・ただし,金銭債権のように,損害賠償責任と履行責任とが同じ性質を有する場合には,履行強制には,債務者の帰責事由が不要であったのと同様に,損害賠償責任の要件として,債務者の帰責事由は不要です。


Ⅴ 参考文献


・加賀山茂『民法体系1』信山社(1996/10)
・加賀山茂『契約法講義』日本評論社(2007/11)
・「新しい要件事実論の必要性とその構築方法-要件事実論という名の官僚法学との戦い-」明治学院大学法科大学院ローレビュー13号(2010/12)23-49頁
・司法研修所の要件事実論に代わる『新しい要件事実論』の構築のために」法学研究84巻12号(斎藤和夫先生退職記念号)(2011/12)203-240頁
・加賀山茂「民事訴訟法理論の破綻と修復の必要性-法律上の推定の復権という観点からの民訴法学に対する苦言と提言-」明治学院大学法科大学院ローレビュー 20号(2014/03)5-36頁
・加賀山茂『民法改正案の評価-債権関係法案の問題点と解決策』信山社(2015/11)
・加賀山茂「民法改正案における『社会通念』概念の不要性」明治学院大学ローレビュー第23号(2016/03)1-20頁
・加藤正信『迫りつつある債権法改正』信山社(2015年)136頁以下
・潮見佳男『不法行為法Ⅰ』〔第2版〕信山社(2009 )
・潮見佳男『民法(債権関係)改正法案の概要』金融財政事情研究会(2018/08)
・潮見佳男「債権法改正と『債務不履行の帰責事由』」法曹時報 68巻3号(2016/03 )633-663頁

書評:陳昭瑛(池田辰彰=池田晶子訳)『台湾と伝統文化』風響社(2015/12/10)


書評:陳昭瑛(池田辰彰=池田晶子訳)『台湾と伝統文化-郷土愛と抵抗の思想史』風響社(2015/12/10)


本書の概要

本書の著者は,台湾で生まれ育った研究者であり、現在,台湾で最も活躍している女性研究者のひとりといわれている,台湾大学の陳昭瑛教授です。

本書は,台湾の伝統文化が,清朝による統治,および,日本統治下の皇民化運動に抵抗しながら,世界の思潮の中で洗練され,さらに新文化運動によって転換の時代に向かったことを,それぞれの時代を象徴する人物と出来事を中心に詳しく解説する論考群です。

本書の特色

ある国を理解する上で,その国の歴史を知ることは決定的といえるほどに重要です。その国の歴史の中で,その国を象徴する何人かの注目すべき人物の行動と成果,それを裏付ける思想を知ることができるからです。

しかも,その歴史的記述が,それらの人物の思想の中身について,現在の私たちにとって重要な以下の視点,すなわち,個人の尊厳両性の本質的平等世界平和にとって,どのような貢献をしているのかが記述されていると,素直にうれしくなります。

本書は,台湾の歴史を鄭成功がオランダ勢力を駆逐した1661年から記述を開始し,清朝統治時代(1684-1895),日本統治時代(1895-1945),中華民国統治時代(1945-)を通じて,台湾の伝統文化の視点から,台湾の伝統文化の歴史が詳しく述べられていますが,それだけにとどまりません。

現代の台湾の総統民選時代(1996-)の思想的な基盤を作り上げた,以下のような歴史上の重要人物について,詳しい記述がなされているからです。

・ 大陸国の祖国(ハートランド)が,幾たびも異民族の支配に屈しても,海洋国(リムランド)としての台湾は,民族の自律と伝統文化を保持するとの気概から,日本の占領下で,『台湾通史』を執筆した連横(1878-1936)の生き様が詳しく語られています。
・ 儒学を基本としながらも,日本留学中に接したマルクス主義を吸収しつつ,フェミニズムの考え方を推し進めた王敏川(1889-1942)の人となりを伝えています。私は,この人物の記述に感銘を受け,早速,論語を読み直すことにしました。
・ 台湾の新文学捜索に尽力し,「台湾新文学の父」とも「台湾の魯迅」とも呼ばれる頼和(1894-1943)については,本書の第8章(一本の金細工)で,1925年に書かれた作品「一本の竿秤(さおばかり)」が詳しく紹介され,日本統治時代における主人公(秦得参)をめぐる腐敗した日本の警察と台湾女性の情愛の深さとがみごとに対比されています。

本書を通じて,私たちは,現在の台湾が,国会議員の数で男女比をほぼ3対1とし,女性(蔡英文氏)を総統(大統領)に選出しており,男女平等・女性の社会進出の点で,わが国がその後塵を拝しているという現状に関する歴史的基盤を知ることができます。

台湾を訪れ,台湾の文化や政治に興味をもたれた方には,本書を読まれることをお薦めします。本書を読むことによって,台湾の文化の真髄と政治の基盤となる台湾人の思想を読み解くヒントが与えられるからです。

本書の課題

読者としての私にとって,現代の台湾を知る上で,最も興味深い記述,すなわち,ワクワクするほどの記述が始まるのは,第7章以下,特に(六)代表的な人物-王敏川(286頁)からでした。

もちろん,それまでの記述も貴重であり,翻訳もこなれていて読みやすいのですが,文学の素人の私にとって,漢詩の部分に限っては読みにくく,途中で何度も挫折しそうになりました。その原因のひとつは,漢詩の読み下し文にルビが非常に少なく,私にとって読めない漢字が多いことに原因があったように思われます。

そこで,本書の訳者に対して,以下の二点を提案したいと思います。

第1点は,本書の改定に当たっては,できる限りルビを増やすこと,特に,漢詩の読み下し文には,満遍なくルビを振り,読者が音読を楽しめるようにすることを提案します。

第2点は,巻末の「台湾史年表」は,簡潔に整理されており,本書を読む際に常に参照して,本書の理解を深めることができました。ただし,本書に登場する重要人物についての記述がない点が惜しまれます。そこで,年表に登場人物に関する記述を追加することを提案します。

創造的な論文の書き方(その2)発見の推論(abduction)


創造的な論文の書き方(その2)

アブダクション(発見の推論)


問題の所在

法学,特に,法解釈学は,法律の条文について,最高裁の有権解釈を追認し,法文の正当化を行うだけであり,創造性とは無縁の学問であると考えられてきた。

創造性を売り物にする法学の博士論文も,これまでのところ,新しい法原理を発見するというものはほとんどなく,多くは,外国の論文を種本とし,外国の法制度や判例を紹介して,わが国の法解釈に示唆を与えるという,外国法,または,外国の法理論の物まねの域を超えるものではない。

もちろん,新しい問題について,従来の法解釈理論を適用して,新しい問題の解決に寄与する論文とか,新しい問題を契機として,解釈理論に多少の変更をするものはあるが,創造的な解釈理論や法原理を打ち出したといえる論文はほとんど見られないというのが現状である。

確かに,法学は,ローマ法以来,2,000年以上の歴史と伝統を有する学問であり,法学の基盤となる法原理を根本的に変革することは,法的な安定性を害するものであって,慎重でなければならない。しかし,社会・経済の発展は,根本的な法原理についても,さまざまな変革を迫っているのであり,社会・経済の発展に即して,法原理の改革,発展を図ることも重要である。

その場合には,法の創造としての立法や,法理論の創造も不可欠となる。ところが,法学においては,法律の条文とか,法原理とかを前提にして,それをさまざまな事実に適用する方法論,解釈理論は発達してきたものの,新しい法原理や法理論を発見する方法論については,ほとんどないに等しい。

そこで,ここでは,創造的な法理論を発展させるための方法として,科学上の発見の推論といわれるアブダクションを,演繹,帰納と対比して,紹介することにする。また,トゥールミン図式をうまく活用するならば,法学においても,理論(仮説)に対する反証を通じて,創造的な法理論を発展させることができることを論じることにする。

法的推論の典型例としての演繹推論(三段論法)とその問題点

法的推論といえば,以下のような,三段論法(演繹推論)が最も重要とされてきた。

大前提:すべての人間は死ぬ。
小前提:ソクラテスは人間である。
結 論:ソクラテスは死ぬ。

しかし,三段論法には,重要な問題点が含まれている。大前提には,例外が許されない。したがって,法律のような但し書きが多い条文について,三段論法に載せることは困難である。

たとえば,民法709条を大前提にすることはできるが,民法709条の要件をすべて満たすと加害者は損害賠償責任を負うと規定しつつ,民法709条の要件をすべて満たす場合でも,民法720条の要件が満たされると,その加害者の損害賠償責任が否定されるという命題を三段論法で説明することはできない。

トゥールミン図式の登場

そこで,トゥールミン図式では,確率的な議論を取り込み,反論を取り込める論理を議論の図式として作り出したのである。

Toulmin02

このトゥールミン図式は,演繹ばかりでなく,帰納も,また,以下に紹介するアブダクションを含めて,すべての推論を図式化することができる点で,法理論の創造にとっても有用である。

推論の3つの型(ケプラーの法則の発見に即して)

論理学上の推論としては,誤りに陥る場合もあるが,有効な方法として,帰納推論とアブダクションという推論方法がある。

英語で表現すると,以上の3つの推論方法は,覚えやすい。なぜなら,演繹は,deductionといい,帰納は,inductionといい,アブダクションは,abductionといって,語尾は共通だからである。

三つの推論の概要を知るために,以下に詳しく述べる,ケプラーの発見した惑星の軌道に関する推論を例にとって説明する。

演繹(deduction)

すでに発見された一般原理から,結論を導き出す推論である。大前提は,発見されるべきものであるから,発見された原理を検証したり,利用する際には,有用であるが,科学的発見には無力であり,使い物にならない。

大前提:すべての惑星は,太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を描く。
小前提:火星は惑星である。
結 論:火星は太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を描く。

帰納(induction)

ビッグデータの分析から,一般原理を導きだす推論である。日常的にも用いられる推論。数学的帰納法を除いて,論理学的には正しくない結論を導き出す恐れがあるので,必ず反証を試み,それに耐えうるものであるかどうかを検証する必要がある。

小前提:水星,地球,木星等の惑星は,太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を描いている。
大前提:すべての惑星は,太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を描く。
(ここに論理の飛躍が潜むことが多い)
結 論:火星は,太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を描く。

アブダクション(abduction)

ひとつのことを徹底的に分析した結果,一般原理を発見する推論。学者による発見は,ほとんどの場合に,この方法によっている。若い学者が,老練の学者を超えることができるのは,一つのことを徹底的に分析するのであれば,経験の豊富さに影響されないからである。

小前提:火星は惑星である。(周知の事実)
結 論:火星は,太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を描いている(ケプラーの発見)
大前提:すべての惑星は,太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を描く(ケプラーの法則の発見)
(論理の飛躍があるので,反証に耐えるかどうか検証しなければならない)

Abduction

発見の推論としてのアブダクションの推論方法を確認するために,ケプラーの発見のプロセスをもう一度振り返ってみよう。

第1に,ケプラーは,火星は惑星であるというところから出発している。そして,第2に,ティコブラーエの膨大な観測記録を10年がかりで分析し,ついに,火星は,太陽を1つの焦点とした楕円軌道を描いていることを発見する。第3に,全ての惑星は,太陽を1つの焦点とした楕円軌道を描くという天文学上の大法則を導くことができた。

この時代,ガリレイもコペルニクスも,惑星は,太陽の周りを円軌道を描いていると信じていた。コペルニクスの地動説が長い間受け入れられなかった原因は,円運動にとらわれた地動説が,観測結果と合致しなかったからである。

ケプラーが惑星の運動を円運動ではなく,楕円運動だと発見したことによって,地動説は,観測結果との間の齟齬が解消されたばかりでなく,その後のニュートン力学の創造に決定的な寄与をすることができたのである。

結論

法解釈学といえば,三段論法が連想され,判決は,三段論法によってその正当性を確保していると信じられてきた。しかし,三段論法の大前提は,例外を許さない原則でなければならず,実は,法律の条文や法原則は,必ずといってよいほど,例外を許すものであるため,三段論法による正当化はできないのである。したがって,法解釈学においても,その推論は,帰納的推論,および,今回紹介した,発見の推論としてのアブダクションを大いに用いるべきである。

その際,注意しなければならないのは,帰納的推論も,アブダクションも,論理学的には,完全な推論とはいえないので,反証に耐えうるかどうか,常に検証を怠らないことが大切である。その際に有用なのが,トゥールミン図式の活用である。

確かに,トゥールミン図式の基本形においては,データを正当化するための根拠に対する裏づけは想定されているが,反論に対する裏づけは,用意されていない。しかし,トゥールミン図式の基本形にヒントを得て,筆者が多少の変形を加えた,法的議論のためのトゥールミン図式の応用型においては,反論に対する裏づけが用意されている。

Toulmin_Kagayama2011

このトゥールミン図式の応用型に基づいて,根拠と反論とを包み込み,両者が納得できる原理を構築することが,まさに,法学(特に,法解釈学)上の発見の推論に当たるのである。

このように考えると,法学,特に,正当化の議論に終始していると非難されてきた法解釈学も,さまざまな条文と但し書きを裏付ける一般的な法原理を導き出し,法の体系化を推進することが,法学,特に,法解釈学の発展を約束するものということができよう。

参考文献

・阿部博幸『がんで死なない治療の選択-アポトーシスの秘密』徳間書店(2014/5/31)
・伊丹敬之『創造的論文の書き方』有斐閣(2001/12)
・トーマス・クーン,中山 茂 (訳) 『科学革命の構造』みすず書房(1971/01)
・高橋健二『ドイツの名詩名句鑑賞』郁文堂 (1991)
・スティーヴン・トゥールミン(戸田山和久,福澤一吉訳)『議論の技法(The Uses of Argument(1958, 2003)) トゥールミンモデルの原点』東京図書(2011)
・野家啓一『パラダイムとは何か クーンの科学史革命 』(講談社学術文庫(2008/6/10)
・プラトン著,藤沢令夫(訳)『メノン』岩波文庫(1994)
・フリチョフ・ハフト/平野敏彦訳『レトリック流法律学習法』〔レトリック研究会叢書2〕木鐸社(1992年)
・米盛裕二『アブダクション-仮説と発見の論理』勁草書房(2007/9/20)

創造的な論文の書き方(その1)比較表の活用


創造的な論文を書くために(その1)
比較表の作成


問題の所在

法学といえば,一見したところでは,最高裁とか有名学者の権威に弱く,先例に拘束される窮屈な学問であり,創造性が働く余地はあまりないように見える(法学にノーベル賞がない理由は,「法学には,学問的創造性が期待できないから」と考えられているようである)。

しかし,法学といえども,修士とか博士とかの学位があり,そこでは,学位授与の審査基準によって,必ず,新規性とか創造性とかが要求されている。全国規模で,法学修士,法学博士の学位が次々と与えられているのは,それに相応する「創造的な」学説が次々に生み出されているからである。

ところが,残念なことに,「創造的な」を生み出した若い学者たちも,いったん学位をとってしまうと,学生の教育については,通説・判例に従った教育を行うことが多く,それに影響されるためであろうか,それ以降に公表する論文においては,ごくわずかの例外を除いて,創造性が大幅に減退する傾向が見られる。

その理由を明らかにするためには,その原因をさかのぼって,「創造的」とされた学位論文を読んでみる必要がある。「創造的」だと判断されて,学位を与えられたいくつかの論文を読んでみると,その多くは,第1に,外国の文献を翻訳して示し,第2に,それをわが国の法制度,学説,判例と対比し,第3に,その比較を踏まえて,わが国に対する示唆を得ることができるというものが多い。しかも,示唆の内容は,比較した「外国法にわが国の法が従うべきである」というのがほとんどである。

以下に述べるように,確かに,比較は,創造性の源泉となるものであるが,比較しただけとか,それを「まね」しただけでは,実は,創造的な作品を生み出したとはいえない。

比較の結果として,「まね」ではなく,新しい作品を生み出すためには,比較の方法(比較表の作成),および,比較から違いと同時に,共通点をも見つけ出し,比較の対象をオーバーフォールした後に,再構築する必要がある。

ここでは,創造性の豊かな論文を作成するための比較の方法(比較表の作成),および,比較から得られた相違点とそれを超えた共通点を発見し,その発見に基づいて,新しい組み合わせを導く方法について論じることにする。

創造性とは何か?

既存の物の新しい組み合わせ

創造的な論文を書くのに必要な創造力とは,何か新しいことを生み出す能力のことである。つまり,誰かの「物まね」ではないものを生み出す能力である。

もっとも,他方で,「太陽の下,新しきものなし(Nothing is new under the sun)」といわれている。そのような観点からは,創造とは,一から全く新しいものを生み出すのではなく,既存の要素の新しい組み合わせに過ぎないということができる。例えば,新しい化学物質の創造も,原子や分子の新しい組み合わせに過ぎない。地球も,天体の物質を受け継いで生まれたものであるし,新しく生まれる子供たちでさえも,親の遺伝子の組替えに過ぎない。

創造性との関連(たとえば,資本主義における「創造的破壊」)でよく用いられるイノベーション(革新)という用語でさえ,それを提唱したシュンペーター(J. A. Schmpeter)も,初めは,「新結合(neue Kombination)」という言葉を用いて,生産要素(資本財,労働,土地)の結合の仕方,すなわち生産方法におけるいっさいの新機軸を表現していた[シュムペーター・経済発展の理論(1912)(上)180頁以下]。そして,これに新商品や新生産方法の導入のほか,新市場,資源の新供給源,新組織の開拓など,きわめて広範な事象を含ませていた。シュンペーターが明示的に「革新(Neuerung = innovation)という概念を用いたのは景気循環の説明においてであった(大野忠男「イノベーション」平凡社世界百科事典)。

法学における創造性の意味

このように考えると,法学における創造性も,社会・経済の発展に伴って生じる複雑な問題に対応するために,今までの法律のルールや判例の法理を組替え,新しい事実に適応できる新しい組換えのルールを用意することができる能力だということになる。

このことは,AIDS(エイズ:後天性免疫不全症候群)やSARS(新型肺炎:重症急性呼吸器症候群)等の新型のウィルスの攻撃から身を守るために,私達の免疫組織が遺伝子の組み合わせを変えながら,そのウィルスを撃退できる新しい免疫組織を創造する仕組みと似ていると思われる。

新しい観点・組合せの発見に有用な比較

先に述べたように,何もないところから新しいことは生み出せない。新しい観点の発見は,比較から生じることが多い。

ギリシャの哲学者ソクラテスが目標としたとされている「汝自身を知れ」(γνῶθι σεαυτόν  (gnothi seauton): Know thyself)といいう命題についても,実は,自分自身を知ることは困難であり,他人と自分とを比べてみて,はじめて自分を知ることができるように思われる。

ドイツの文豪ゲーテは,「外国語を知らない人は,自国語もよくは知らない」という名言を残している。

Wer fremde Sprachen nicht kennt,
weiss nichts von seiner eigenen.

もっとも,これだけでは,ソクラテスの名言「汝自身を知れ」とは,何の関係も内容に思われる。しかし,ゲーテの名言について,その「対偶」(A→Bの対偶は,¬B→¬A)を取ってみると,「自国語をよく知っている人は,外国語を知っている」という同値の命題に変換できる。

そうすると,ゲーテの名言は,自国語を知ろうと思えば,外国語を習得してみるのがよい,すなわち,「外国を習得してみて,初めて自国語の特色を発見できる」ということに帰結する。

このように考えると,ソクラテスの格言とゲーテの格言とは,一見したところでは,哲学と語学という全く異なる分野に関する無関係な命題のように見えるが,実は,自己(自国語)を知ろうと思えば,他者(外国語)との比較が必要であるという点で,共通点を発見することができる(ここで,共通点を発見するために用いたのは,論理学の「対偶」である)。

ここまでくると,戦略の至高原理とされる「知彼知己者 百戦不殆(敵を知り 己を知れば,百戦危うからず)」も,原理は同じであることに気づく。

後に,比較表にしてまとめることにするが,同様にして推論を進めていくと,法律家にとって創造の源泉となるのは,時間的,場所的比較であることが判明する。時間的比較を行うのが法制史であり,場所的比較を行うのが,比較法なのである。

法を研究する者にとって,論理学を基盤とした法解釈学だけでなく,法の歴史(法思想史,法制史),比較法が必須であるのは,以上の理由に基づいている。

比較表の効用

新しい論点の発見

新しい組み合わせは,問題の要素を「表」に表現することによって発見できることが多い。なぜなら, 問題点を「表」にすると,複雑な議論が単純となり,理解が深まるからである。しかも, 問題点を「表」にまとめて見ると,「表」にしないと気づかないことであるが,「表」に空欄ができる。その空欄こそが,従来の考え方では気づかれなかった重要な論点であることが多く,その論点が発見されるたことによって,創造性が促進されることになる。

比較表の作成による正確性と創造性の同時実現

比較表の効用は,「表」の列と行の対比を通じて,共通点と相違点とが明確となる点にある。つまり,項目の相違点を比較することによって,知識が正確となる。

したがって,文章を書く前に,その問題点について,比較表を作る作業をすると,学生や,他分野の学者にとって,専門知識を確実に習得することに役立つだけでなく,項目の共通点を見出すことによって新たな観点を発見することが容易となる。

比較表を作成すると,創造的な思考力が養成される理由は,以下に詳しく述べるように,比較表を活用すると,相違点の網羅的な発見と,隠された共通点の発見が同時に実現できるからである。

比較表作成における戦略

1.対立点に着目した列の項目の選定

全く独立で相互に関係がないように見える対象に対しては,それらの対象間に見られる対立点に着目して,比較表の列の項目を選定する。相違点がなければ,比較表を作成する意味がなくなるからである。

2.対立点に隠された共通点の探索による列の項目の追加

上記とは逆に,対立・矛盾すると思われる対象に対して,それらの対象間に類似点を見出せるような観点を発見するように努める。「敵の敵は味方」,「例外の例外は原則」という考え方を利用して,一方の対象を発見することができると,他方の対象との類似点や共通点を発見できる。

比較表による発見の例

比較表の作成例を順を追って説明する。それぞれの段階における比較表の変化のプロセスは,最後に実際の比較表の変遷図としてまとめている。

第1段階

ソクラテスの「汝自身を知れ」とゲーテの「外国語をしならない人は,自国語も知らない」という命題を,格言集として並べてみよう。これが,比較表の第一歩となる。ただし,項目を単純に並べた表を作成しただけでは,何の知見も得られない。そこで,次のステップに移る。

第2段階

それぞれの命題の列の下に,「目標」と「手段」というサブ項目を作成して,それぞれの項目に沿って,それぞれの命題を並べてみると,そこに空欄が生じる。この空欄こそが,創造性の萌芽となる。

第3段階

「目標」と「手段」という列項目に即して,空欄を埋めてみると,以下のことが明確となる。

確かに,ソクラテスの言明は,目標であり,ゲーテの言明を待遇として変形したものは,手段を述べているという違いがある。しかし,ソクラテスの言明も,ゲーテの言明も,自分自身(自国語)を知るには他者(外国語)との比較が必要であるという,共通の目標と共通の手段を述べたものであることを理解することができる。

第4段階

第3段階の知見を基礎にすると,哲学的言明(汝自身を知れ),語学的言明(外国語を知らない人は自国語も知らない)から,比較表が,さらに発展を遂げることになる。

すなわち,法学について,「国内法を知ろうと思えば,外国法,および,過去の法について知る必要がある」とか,「外国法,および,法の歴史を理解しない人は,国内法の特質も理解できない」といって,学生の勉学意欲を刺激することができると思われる。

comparative_study

結論

創造的な論文を書くためには,「創造性とは何か」を理解する必要がある。

創造とは,一から何か新しいことを作り出すのではなく,従来の考え方の要素を分解して,新しい観点から再構築することに過ぎない。したがって,創造的な仕事は,天才だけができる困難な問題ではなく,これから研究しようとする問題について,その要素をさまざまな視点から縦と横との比較表に載せてみるという「地道な作業」を通じて,誰もが実現できる身近な作業なのである。

その際,さまざまな考え方について,相違点と共通点を明らかにするという戦略に従って,列の項目を立ててみると,多くの場合,縦の列に空欄ができることがわかる。その空欄こそが,これまでほとんどの人が見過ごしてきた点であり,その空欄を埋めていくことで,論理の正確性が図られるばかりでなく,新しい視点が生み出されることが多い。

作成できた比較表を分析して,比較した対象の相違点を明確にするとともに,それを超える共通点,融合点を発見することができる点に,比較表の醍醐味がある。

なお,創造性を高めるためには,今回の比較表の作成だけでなく,発見の推論(アブダクション)という推論方法についても,理解しておく必要がある。この点については,次の機会に譲ることにしたい。

参考文献

・阿部博幸『がんで死なない治療の選択-アポトーシスの秘密』徳間書店(2014/5/31)
・伊丹敬之『創造的論文の書き方』有斐閣(2001/12)
・佐伯胖「認知科学の誕生」渕一博編著『認知科学への招待 第5世代コンピュータの周辺』〔NHKブックス446〕日本放送協会(1983年)9-41頁。
・シュムペーター(J. A. Schumpeter)著/塩野谷祐一,中山伊知郎,東畑精一訳『経済発展の理論-企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究-』岩波文庫(上,下)(1977)
・高橋健二『ドイツの名詩名句鑑賞』郁文堂 (1991)
・プラトン著,藤沢令夫(訳)『メノン』岩波文庫(1994)

説得力のある論文の書き方


説得力のある文章(レポート,論文など)の書き方


Ⅰ アイラック(IRAC)で考える

1.アイラック(IRAC)で考えることの有用性

アメリカのロー・スクールでは,法的問題の解決に際して行われる法的分析を,以下ように,5つのプロセスに分類し,これを”IRAC”と名づけている。

争点(Issue):何が争われているのか。
ルール(Rule):争われている事実に適用されるルールは何か。
適用(Application):ルールを適用するとどのような結果が導き出されるのか。
議論(Argument):事件を別の観点から見た場合に他のルールを適用できないか。
結論(Conclusion):上記の議論を踏まえた上で,妥当な解決策を提示する。

アイラック(IRAC)という弁論および文章の構成作法は,もともとは,ギリシャのソフィストたちが考案し,ソクラテス,プラトンを経て,アリストテレスによって完成された「弁論術(説得の技術)」の一部をなすものである。

この作法は,現在においても,法廷での口頭弁論ばかりでなく,演説,レポート,論文など,あらゆる文章を構成するに際して,人を説得するのに有用な普遍的な方法として,認められている。

したがって,アイラック(IRAC)をマスターすることは,レポートの作成対策ばかりでなく,あらゆる試験対策,起案対策にとって有用であり,法学部の学生ばかりでなく,すべての学生がマスターすべき文章技術であるということができる。

2.アイラック(IRAC)と論文構成との関係

アイラック(IRAC)について,論文の書き方と関連させてもう少し具体的に説明すると以下のようになる。

  1. 争点(Issue)具体的事実の中から重要な事実や問題点(争点)を発見する。
    論文の場合には,問題の提起として,先行研究を検討し,それらの研究では,現在の複雑な問題を解決できないこと,これに代わる新しい考え方が必要であることを述べる。
  2. ルール(Rule) 争点に関連するルール・法理を発見する。
    ・争いとなってる事実関係のなかから,条文の効果に着目して,適用されるべきルールをすべて網羅し,その条文の要件に該当する事実をピックアップする。通常は,適用に値するルールが複数見つかる。
    ・適切な条文が見つからない場合は,適用されるべき一般原理(民法通則とか,一般不法行為)を探索する。
    論文の場合には,現代の問題を解決するのに適切であると思われる新しい仮説を提示する。
  3. Application(適用) 発見されたルール・法理を重要な事実へ適用して,暫定的な結論を得る。
    ・暫定的な結論(tentative conclusions)には,原告有利の結論(tentative conclusion for plaintiff) と 被告有利の結論(tentative conclusion for defendant )という2つの相反する仮の結論が含まれる。
    論文の場合には,新しい仮説群をに現代の問題を当てはめてみて,複数の仮の結論を導く。
  4. Argument(議論)賛成説と反対説とを戦わせることによって自分の立論の弱点を知り,補強する。
    ・原告有利の結論と被告有利の結論とで,どちらが,具体的に妥当な解決を導くかについて,さまざまな観点から検討する。
    論文の場合には,先行研究から導かれる結論と新しい仮説から導かれる結論とを対比し,どちらが具体的に妥当な結論を導くことができるかどうか検討する。
  5. Conclusion(結論)自分の最終的な立場を明確に表現する。
    ・事案の解決として最も妥当な結論を導くルール,または,法原理を提示し,そのルールからどのような具体的な結論が導かれるか,結論を明らかにする。
    論文の場合には,筆者の提示する当たらしい仮説によって,複雑な問題が,解決できること,体系的にも矛盾が生じないことを示す。
    ・いずれの場合においても,結論が,最初の問題提起の答えとなっていることを確認する。

3. IRACを使用する場合の留意点

A. 争点とルールとの相互関係

アイラック(IRAC)では,I(争点の発見)を行ってから,R(ルールの発見)を行うという順序をとっている。演説を聞いたり,論文を読んだりする場合には,この順序によるのがよい。

しかし,演説を構成したり,論文を書いたりする場合には,この順序は,必ずも有効というわけではない。なぜなら,第1に,争点を発見するためには,ルールの構成要素である要件の観点から事実関係を眺めることによって,問題となる事実(争点)が浮かびあがってくるし,第2に,争点としての事実が明らかになると,それに適用されるべき新しいルールが浮かび上がってくるからである。

このように,I(争点の発見)のためには,R(ルールの発見)が重要な役割を果たしているし,R(ルールの発見)には,適用されるべき事実が明確となっている必要があるのであるから,両者は,実は,不可分に結びついており,両者を切り離して考えることはできない。

つまり,アイラック(IRAC)の実際の作業は,以下のような複雑な流れ,すなわち,「行きつ,戻りつ」というプロセスを踏むことになる。

rule_based_j1

  1. 当事者の主張に関連する事実関係を調査し,その事実に適用されるべきいくつかのルールを選択する(ボトムアップ式の推論その1)。
  2. そのルールの要件の観点から,それらの要件に該当する事実があるかどうかを調査する(トップダウン式の推論その1)。
  3. 発見された事実に適用されるべきその他のルールを探索する(ボトムアップ式の推論その2)。
  4. その他のルールの要件の観点から,その他のルールの要件に該当する別の事実があるかどうかを調査する(トップダウン式の推論その2)。
  5. 別の事実が確認されたたら,その事実に適用されるべきルールを探索する(ボトムアップ式の推論その3)。

このような作業を「行きつ,戻りつ」しながら,地道に行うことを通じて,I(争点の発見)とR(ルールの発見)とは,その順序で完成するのではなく,実は,二つが同時に完成するのである。

B. 議論の方法

アイラック(IRAC)においては,一方に有利な暫定的な結論と他方に有利な暫定的な結論とを戦わせながら,よりよい結論を導き出す点に特色がある。

しかし,この議論は,順序だて,しかも,一定のルールに従って行わないと,不毛な水掛け論に終始する恐れがある。

この困難な問題を解決してくれるのが,議論のルールとして,確立した地位を占めている「トゥールミンの図式」を使った議論の方法である。

この方法をマスターすることによって,アイラック(IRAC)を十分に使いこなすことができるようになる。

Ⅱ トゥールミン図式で議論する

1.トゥールミン図式の原型

トゥールミン図式の原型は,レトリックの基本である三段論法を図式化したものである。ここにおいては,議論をするには,最初にデータ(Data:根拠)を示して,自分の言いたいこと(Claim:主張)を言うべきであることが示されている。また,その際に,相手方が一応なりとも納得できるような理由(Warrant:推論保証=論拠)を示してから議論をはじめるべきであることも示されている[トゥールミン・議論の技法(2011)147頁]。

Toulmin01

上記の図(トゥールミン図式の原型)は,このままだと,従来の三段論法と代わり映えがしない。なぜなら,以下のような三段論法と対比してみると分かる。

大前提:人間はすべて死ぬ。
小前提:ソクラテスは人間である。
結 論:ソクラテスは死ぬ。

トゥールミン・モデルでは,まず,小前提にあたる事実D:根拠(小前提:ソクラテスは人間である)から,C:主張(結論:ソクラテスは死ぬ)が述べられる。理由を聞かれた場合に,W:論拠(大前提:人間はすべて死ぬ)という理由を述べることになる。

日常生活でも,「D:データ」したがって「C:主張」という言い方,すなわち,「ソクラテスは人間,なので,死ぬ」とか,「我考える,故に,我あり」という,「W:論拠」を省略した言い方(三段論法的には誤り)が抵抗なく受け入れられている。

上記の場合に,強いて理由を聞かれると,「人間は誰でも死ぬものだから」とか「考えるものは存在しているから」という「W:論拠」が付け加えられることになる。

2.トゥールミン図式の基本型

ところで,論理学の世界では有用な三段論法であるが,現実社会では使いものにならないという大きな問題点を抱えている(机上の空論)。なぜなら,日常生活の中で大前提となるような法則といえば,「人間は死ぬ」,「権力は腐敗しやすい」くらいのものであり,それ以外に,日常生活で使えるような大前提を発見することはほとんどないからである。

《追加》日常生活や科学上の発見をリードしてきた推論としては,三段論法,すなわち,演繹(deduction)よりも,論理的な誤りに陥る危険性があるため慎重な検証が必要とはいえ,多くのデータに基づいて推論する帰納(induction)とか,科学的な発見の推論といわれているアブダクション(abduction)の方がはるかに有用である。この点については,別稿「創造的な論文の書き方(その2)発見の推論(abduction)」において,詳しく述べることにする。

これに対して,トゥールミン図式の場合は,その原型に「主張(Claim)」の様相を限定する「十中八九」とか「おそらく」という「様相限定詞(Qualifier)」を付け加え,さらに,「反論(Rebuttal)」を付け加えることによって,日常生活にも通用し,議論を分析する強力な道具とすることができる[トゥールミン・議論の技法(2011)153頁]。

なぜなら,トゥールミンの図式によれば,必ずしも従来の論理学や法律を根拠とせずに,「常識」を論拠としても,説得的な議論を展開することを可能するばかりでなく,あらゆる議論のプロセスを図の中に正確に位置づけることができるからである。

Toulmin02

上記のトゥールミン図式における「D:データ(根拠)」と「W:論拠」の区別は,事実問題と法律問題と考えるとわかりやすい。

トゥールミン図式の中で困難さが生じているのは,「W:推論保証(論拠)」と「B:裏づけ」との区別が一見したところではわかりにくい点である。トゥールミン自身の記述[トゥールミン・議論の技法(2011)154 頁]によれば,「W:論拠」は反駁可能な「仮言的言明(A ならばB である)」とされている。したがって,要件と効果で書かれた法律の条文も「W:論拠」に含まれることになる。これに対して,「B:裏づけ」は「定言的事実命題(A である)」とされているので,反駁を予定していない定義や公理がこれに含まれることになる。

トゥールミンの図式の特色は,先にも述べたように,厳格な科学知識とはいえない「常識」を論拠としても,説得的な議論を展開することを可能することができる点にある。そればかりでなく,あらゆる議論のプロセスをこの図の中に正確に位置づけることができる点が重要である。このため,トゥールミンの図式を活用すれば,議論の全体像が明らかとなり,議論が拡散したり,横道にそれたりすることを防ぐことができるようになる。

3.トゥールミン図式を応用した議論のプロセス

トゥールミン図式を活用すると,議論を建設的なものとするための「議論のルール」を作成することが容易となる。この点については,「議論のルール20箇条」[福澤一吉・議論のルール(2010)205-209頁]が大いに参考になる(なお,ルールの番号は,筆者の観点から体系的に整理し直している)。

1.事前の申し合わせ

A. 発言について〔発言の意味がわかるために:国語の問題〕
〔 1〕 1つの文で1つの考えを表現する
〔 2〕 述語を完結させる
〔 3〕 文と文との接続関係を意識する
〔 4〕〔議事録をとるために〕書くように話す

B. 質問について〔議論をかみ合わせる〕

〔 5〕 自分の質問は実態調査タイプか,仮説検証タイプかを知る
〔 6〕 質問と主張とを同時にしない
〔 7〕 相手が自分の質問に答えているかを確認する
〔 8〕 自分の質問への答えを自分でしっかりと評価する

2.第1ラウンド

A. 最初の発言の分析〔主張をトゥールミン図式で表現する〕

〔 9〕 主張と根拠とをペアにする
〔10〕 議論において1度に提示する主張は1つに限る

B. 相手の発言の分析〔どの点に反論するのかを含めて,トゥールミン図式で表現する〕

〔11〕 まず相手の発言に触れ,次にその発言について返答する
〔12〕 自分の意見と相手の意見の関係を明示する

3.争点の整理

〔13〕 議論の対立軸を見極める
〔14〕 議論の鳥瞰図をつかみ,局所反応をしない
〔15〕 議論の論点を絞り込む
〔16〕 人によって使われ方が異なっている言葉は内容を事前にチェックする

4.第2ラウンド以降の議論のコントロール

〔17〕 議論に関係ないことは言わない
〔18〕 論点のシフトに注意する
〔19〕 話が論理的にリンクするところに注目する
〔20〕 論理性が欠如した〔リンクが切れた〕話し合いを補修する

上記の「議論のルール20箇条」を念頭に入れて,議論の進行の経過をトゥールミン図式にしたがって会議場の白板に書き込みながら議論を行うと,先に述べたように,議論が横道に外れたり,拡散したりするのを防ぐことができるばかりでなく,議事録をとるのが容易になる。議論をする際には,ぜひ試してみよう。

4.トゥールミン図式の交渉術への応用型

トゥールミン図式を使いこなしていくと,主張の根拠(Warrant)と反論(Rebuttal)とを融合する方法として,裏づけ(Backing)をうまく利用する方法が見えてくる。

反論は,法律の条文に即していうと,但し書きにあたる部分であるため,本文と但し書きをひとつにまとめる原理を示すと,それが,争いを当事者双方が納得して解決するための根拠であることがわかる。

したがって,私は,トゥールミン図式を少し変形して,以下のような,交渉を通じて当事者が合意(和解)に達するための議論の図式(トゥールミン図式の応用型)として示すことにしている。

Toulmin_Kagayama2011

根拠(Warrant)に裏づけがあるように,実は,反論(Rebuttal)にも,裏づけがあるはずであり,両者の関係をうまく調整するならば,実は,トゥールミン図式の裏づけは,根拠だけでなく,反論の裏づけでもあるというような統合的な裏づけを考えることができる。

議論を通じて,議論の当事者が納得できる裏づけが形成されていくことが,単なる紛争の解決だけでなく,さらに,法の発展に寄与することになるのである。

Ⅲ アイラック(IRAC)の最後のチェックポイント

1.問題の提起と結論との関係に留意する

アイラック(IRAC)で重要なことは,最後に,I(争点)とC(結論)との間の関係が,「問い」と「答え」との関係になっているかどうかを確認する作業を怠らないことである。

最初にI(争点)としてあげたことについて議論を重ねているうちに,C(結論)がI(争点)とは,ずれてしまって,争点に対する解決策になっていないということがよく生じるからである。

議論を重ねた結果,副産物として,その他の問題についての有用な結論が生じたとすれば,それは,貴重な副産物であるが,アイラック(IRAC)としてまとめる場合には,C(結論)は,必ず,I(争点)に対する「答え」の形式をとることが必要である。

争点と結論との関係が,「問い」とその「答え」となっていない場合には,議論を見直して,争点と結論の関係を明確にするように,調整する必要がある。

2.次の課題へとつなげる

アイラック(IRAC)によって争点に対する結論が示された場合,その結論が,新たな争点を生み出すという場合がよくある。そのような場合には,結論の後に,残された問題として,結論が,新たな問題提起となっており,それが,今後の課題につながることを示すのがよい。

その様な残された課題について,筆者自身がそれを発展させることもよいが,読者がそれを引き継いで,学問の発展につながることになれば,さらによい結果が生じるからである。

参考文献

・浅野樽英『論証のレトリック―古代ギリシアの言論の技術』講談社現代新書(1996年4月)
・足立幸男『議論の論理-民主主義と議論』木鐸社(2004/10)
・アリストテレス(戸塚 七郎訳)『弁論術』 岩波文庫)(1992/3/16)
・岩田宗之『議論のルールブック』新潮新書(2007/10)
・加賀山茂「論文を書く時の資料の整理について」大阪大学法律相談部『法苑』復刊3号(1977)15-24頁
・加賀山茂「研究者をめざす大学院生フォーラム 番外編 法学文献の読み方 : 書くためにどう読むか」法学セミナー60巻5号(2015/05)52-61頁
・澤田昭夫『論文のレトリック-わかりやすいまとめ方』講談社学術文庫(1983)
・曽我謙悟「コラム・先行研究を読むとはいかなる営みなのか-大学院新入生へ一つアドバイス(上)(中)(下)」書斎の窓(2014-2015)No.635 32-36頁,No.636 24-29頁,No.637 35-38頁
・田中美知太郎『ソフィスト』講談社学術文庫(1976)
・スティーヴン・トゥールミン(戸田山和久,福澤一吉訳)『議論の技法(The Uses of Argument(1958, 2003)) トゥールミンモデルの原点』東京図書(2011)
・福澤一吉『議論のレッスン』生活人新書・NHK出版(2002/04)
・納富信留『ソフィストとは誰か?』人文書院(2006/09)
・福澤一吉『議論のルール』NHKブックス(2010/5/26)
・プラトン,加来 彰俊 (訳) 『ゴルギアス』 岩波文庫(1967)

最高裁の国民審査の実効性を高める方法について


最高裁の女神像撤去運動

最高裁判所の裁判官の国民審査を活性化するための方法論(試論)


問題の所在

最高裁は,わが国の最高権力のひとつであり,「権力は腐敗に向かう」という格言どおりに,著しく腐敗しているといわれています(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書(2014/2/21))。

最高裁判所の腐敗を防止するためには,最高裁判所裁判官国民審査法(以下,「国民審査法」と略称する。)を改正し,国民が最高裁判所の裁判官を実質的に罷免できることができるようにする制度へ変更するのがもっとも有効な方法でしょう。

なぜなら,現在の国民審査法では,罷免すべき裁判官に×印をつけるという,最高裁判所の裁判官にもっとも有利な「陶片追放」型の投票様式を採用していますが,通常の投票方式である罷免を可としない裁判官の記名投票,または,罷免を可としない裁判官に○印をつける投票様式に変更すれば,裁判官を確実に罷免することができるようになるからです。

具体的には,国民審査法を以下のように改正すれば,最高裁の裁判官の国民に対する上から目線がなくなり,政府よりの目線,大企業よりの目線から,国民全体に対する目線(国民救済の視点)へと変更されることになると思われます。

最高裁判所裁判官国民審査法(改正私案)

第14条(投票用紙の様式)

②投票用紙には、審査に付される各裁判官に対するの記号を記載する欄を設けなければならない。

第15条(投票の方式)

審査人は,投票所において,罷免を可としない裁判官については,投票用紙の当該裁判官に対する記載欄に自らの記号を記載し,罷免を可とする裁判官については,投票用紙の当該裁判官に対する記載欄に何等の記載をしないで,これを投票箱に入れなければならない。

しかし,最高裁判所に甘い国会議員は,このような改正には賛成しないと思われます。したがって,国会議員による国民審査法の改正を待っていたのでは,最高裁の裁判官が,国民目線でものごとを考えるようにするという,最高裁の改革を実現することはおぼつかないでしょう。

そこで,最高裁のすべての裁判官の目線が国民に向けられるような改革運動を,個々の国民が立ち上がり,最高裁の改革のために運動を起こすことが必要でしょう。

最高裁改革の方法論としての「最高裁の女神像撤去運動」の趣旨

最高権力のひとつとしての最高裁の腐敗を除去し,今後の腐敗を未然に防止する象徴的な行動として,最高裁に鎮座している奇妙な女神像を撤去する運動を開始することを提言したいと思います。

その理由は,法の女神は,本来ならば,第1に,平等と公平を保つために目隠しをし,第2に,公正かつ衡平を担保するために天秤を掲げ,第3に,必要とあらば強制力を行使しますが,そのような権力行使の濫用を防止するためには,剣を下げて持つべきです。

ところが,最高裁の女神像は,以下のように,法の女神の理想像とは正反対の姿をしています(http://www.geocities.jp/wpo_explorer/exp2/003.jpg)。

ThemisInSupremeCourtOfJapan003

 

  • 第1に,目隠しをせずに目を見開いており,これは,偏見と書面主義を表しており,弁論主義に違背しています。
  • 第2に,最高裁の女神像は,高く掲げるべき天秤を降ろしており,これは,公正・衡平をないがしろにするものであり,法の精神に反しています。
  • 第3に,最高裁の女神像は,高く掲げるべき天秤を降ろす替わりに,剣を高く掲げて,官僚主義的な権力主義をあらわにしており,権力の濫用の禁止に反しています。

以上の理由に基づき,最高裁の女神像は,即刻,撤去し,アメリカ合衆国の連邦裁判所の女神像(ダニエル H. フット『名もない顔もない司法-日本の裁判は変わるのか』NTT出版(2007/11/20)41頁)等の世界各地の女神像を比較検討し,わが国において,特に必要とされる「偏見」を取り去り,かつ,「弁論主義」を強調するために「目隠し」をし,「衡平」を確保するために,「天秤を高く掲げ」,「権力の濫用を防止する」ために「剣を降ろした」女神像へと変更すべきであると考えます。

最高裁の女神撤去運動の方法論

日本国憲法第15条第1項は,「公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利である。」と規定しています。

また,第79条第2項,および,第3項は,「 最高裁判所の裁判官の任命は,その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し,その後10年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し,その後も同様とする。前項の場合において,投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは,その裁判官は,罷免される。」と規定しています。

ところが,これらの規定は,形骸化し,実効性を完全に失っています。そこで,この規定を活性化する試みのひとつとして,上記の「女神像撤去運動」の趣旨を活用することが必要です。

themisすなわち,最高裁の女神像は,目隠しをせず,天秤を高く掲げず,剣を振り上げるという,本来の法の女神とは正反対に,偏見・不公平・権力の濫用を助長することを象徴している女神像は,速やかに撤去されるべきであり,本来の法の女神像に変更すべきです。

それにもかかわらず,この女神像を撤去せずに放置している最高裁の裁判官たちは,人権感覚が麻痺しており,法の番人として不適格であり,すべて罷免されるべきです。

したがって,最高裁の裁判官の国民審査においては,この女神像撤去運動に賛同する市民は,最高裁の女神像が撤去されるまで,審査に付された裁判官すべてに×を付ける運動を開始することが必要と思われます。

運動の手段の濫用の防止のための方策

国民審査に際しては,この運動に参加するすべての市民は,最高裁の女神像が撤去されるまで,女神像の存続を是認しているとみなされる最高裁の裁判官全員に対して,×をつけるべきですが,最高裁の裁判官の中には,市民のために良心的な判決を下している裁判官もいるはずです。

そのような裁判官を保護する方法としては,「最高裁の女神像撤去運動」に賛同する会員のうち,市民のために適切な判決を下している裁判官であることを知った市民が,その裁判官について,×をつけることを控えることは一向に差し支えありません。

もっとも,このような運動は,現段階では夢物語に過ぎませんが,最高裁の腐敗がさらに進行し,国民がそのことに危機感を抱くような時が到来すれば,このような運動の提言は,社会的貢献につながるのではないかと,私は考えています。

書評:ダニエル・フット『名もない顔もない司法-日本の裁判は変わるのか』NTT出版(2007)


ダニエル H. フット『名もない顔もない司法-日本の裁判は変わるのか』NTT出版(2007/11/20)


本書の概要

この本の著者は,1981年にアメリカ合衆国のロースクールを卒業して連邦地方裁判所および連邦最高裁判所のロー・クラーク(裁判官の下で法律の調査や判決の起案をする人のこと)を勤め,合衆国での弁護士経験もある人物です。著者は,1983年に外国人研究生として来日して,東京大学,最高裁等で日本の裁判制度をアメリカの裁判制度と比較しながら研究し,東京大学法学部の助手を経て,2000年からは,東京大学大学院法学政治学の教授(現職)です。

本書は,日本の裁判所とアメリカ合衆国の裁判所を比較することを通じて,日本の裁判所の裁判官の没個性,世間との没交渉性,人事の不透明性,面子にこだわり内部からの批判を排除するという官僚的な性質を見事に暴き出した優れた本です。

本書の特色

本書の第1の特色は,21頁の2枚の写真(最高裁の大法廷の統一した椅子の写真と,アメリカ合衆国連邦裁判所の不揃いの椅子の写真比較する2枚の写真)によって,日本の裁判所の裁判官の没個性と合衆国の裁判所の裁判官の個性の尊重とを一目で理解できるようにしている点にあります。

SupremeCourtJapan_s

わが国の最高裁判所の法廷の統一規格の椅子
http://s.eximg.jp/exnews/feed/Iphonezine/Iphonezine_6703_1.jpg

SupremeCourtUsa_s

アメリカ合衆国連邦裁判所の法廷の不揃いな椅子
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Ussupremecourtinterior.JPG
なお,本書21頁の写真では,椅子の不揃いの様子がもっと鮮明に写っています。

本書の第2の特色は,41頁の2枚の写真(最高裁の大法廷の剣を振り上げ,目隠しをしない女神像と,合衆国連邦裁判所の目隠しをした女神像の写真)の対比によって,日本の裁判所の書面重視主義と,アメリカ合衆国の弁論重視主義とを一目で理解できるようにしている点にあります。

ThemisInSupremeCourtOfJapan003

わが国の最高裁判所の女神像
http://www.geocities.jp/wpo_explorer/exp2/003.jpg
最高裁の女神像は,お顔こそ穏やかですが,所作は恐ろしいものです。
目を見開いていることは,偏見と書面重視・弁論軽視の姿勢を示しています。
天秤を下ろして剣を高くかかげた姿は,まさに,官僚的権威主義の象徴です。
これでは,最高裁の裁判官たちの人権感覚が疑われても仕方がないでしょう。
本書の指摘を受けて,最高裁の改革が実現する時というのは,
この女神像が撤去され,この女神像とは正反対に
目隠しをし,天秤を高く掲げ,剣を降ろした女神像に入れ替った時でしょう。
アメリカ合衆国連邦最高裁判所の目隠しをした女神像は,本書41頁をご覧ください。

本書の第3の,そして,最大の特色は,裁判官の政治活動が問題とされた非常によく似た日本の事件(寺西事件)とアメリカ合衆国の事件(サンダース事件)とを取り上げ,優れた比較を行っている点にあります。

すなわち,本書は,上記の二つの事件の内容はほとんど同じにもかかわらず,日本では,政治活動をした裁判官を有罪とし(正確には,仙台高等裁判所の分限裁判で戒告処分を受け,最高裁でも賛成10と反対5で戒告処分が妥当と判断された),アメリカ合衆国では無罪としたという結論の違いだけでなく,日本では,手続きを非公開の裁判としたのに対して,合衆国は,公開の法廷で審理を行ったことに着目し,なぜ,そのような差が生じたのかについて,鋭い分析をしている点にあります。

詳しい内容は,本書を読んでいただくほかありませんが,以下の記述(181-182頁)は,まさに,日本の裁判所の本質を突いていると思われます。

私は,日本の裁判所が〔非公開の〕懲戒手続きをとると決めた際に,〔懲戒手続きは内部の問題であると考えるのとは別の〕もうひとつ別の要因が作用したのではないかという思いを捨て切れない。それは,組織の面子がつぶされたという感覚である。

これを実証的に証明することはできない。しかし,懲戒手続きとして耳目を集めた二つの事件-寺西事件と第3章でみた福島重雄の事件-が,ともに裁判官が裁判所の恥を公にさらした事件だったというのは,単なる偶然とは思えない。

寺西事件は,裁判官は検察や警察による令状の請求に対して盲判を押していると示唆する朝日新聞への投稿に端を発し,福島事件では,知人に送られた(そして報道機関の手に渡った)いわゆる平賀書簡の写しが,若手裁判官が事件で特定の結論を出すように上司から圧力をかけられているような印象を与えた。

もちろん合衆国でも,内部問題についての好ましくない情報を暴露して組織の評判を落とした人に対して,かなりの非難が浴びせられる点では変わりはない。内部告発者は組織の対外的責任を確保するという重要な役割を果たすが,組織内では決して好かれる人物ではない。

日本では,組織の「裏切り者」に対しては,合衆国よりも一段と激しい非難が集中するといえよう。さらに,日本ではキャリアシステムがとられ,労働力の流動性が低いこともあり,組織内部の好ましくない情報を公に暴露する行為に対しては,合衆国よりも相当大きな圧力がかかる。こういった要素が重なることによって,日本では好ましくない事実が秘匿される傾向が強くなっているといえよう。

本書の第4の特色は,わが国で裁判員制度について,アメリカ合衆国の陪審員制度と比較した場合,その制度趣旨が明確でないため,裁判員の利益があまりにも少なく,守秘義務等,負担があまりにも大きいことを明らかにしています。

本書の課題

本書は,アメリカ合衆国の裁判制度との比較を通じて,わが国の裁判制度の特色を見事に浮き彫りにした傑作です。

ただし,本書の著者が接する裁判官が最高裁のトップや優秀な裁判官に限定されているためでしょうか,日本の裁判官に甘い点が少なからず見られる点については,鵜呑みにすべきではないでしょう(瀬木 比呂志『ニッポンの裁判』講談社現代新書 (2015/1/16) も,この点を強調しています)。

たとえば,完全に形骸化して,機能不全に陥っている最高裁の裁判官の「国民審査」について,限界を認めつつも,以下のように指摘していますが(105頁),いかにも甘すぎる評価のように思われます。

私個人としてはこの国民審査制はよい制度だと思っている。この制度は,少なくとも定期的に最高裁判所に対する人々の関心を呼び起こす役割を果たしている。

日本の裁判官について得られる情報量は,ミズーリ州や合衆国の他の州と比べると格段に少ないものの,インターネットの普及とともに裁判官に関する情報はかなり手に入りやすくなっている。そして,退官した裁判官の話によれば,裁判官自身,罷免を求める票の割合にはかなり関心をもっており,その割合は小さくとも一定の影響力はあるのかもしれない。

また,瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書 (2014/2/21)は,本書について,以下のように,厳しく批判しています。

フット教授による日本の司法の分析については,全体としては評価すべき部分があると思うが,前記の書物〔本書〕についてみると,日本の裁判所・裁判官制度の決定的な特色であるヒエラルキー的な上位下達の官僚組織という側面の問題点に関する十分な認識が欠けているように思われる。

〔裁判員制度に対する期待(本書289頁以下)についても〕,法社会学者の分析としてはいくら何でも甘すぎるのではないかと私〔『絶望の裁判所』の著者・瀬木〕は考える。私の周囲の学者にも,私の知る限りの民事訴訟法学者にも,裁判員が裁判官に及ぼす効果についてそのような甘い期待ないし幻想を抱いている人はあまりいない。

それにもかかわらず,本書は,日本人が見過ごしているさまざまな点について,比較研究の視点から鋭く抉り出しており,わが国の裁判所に関する一級の啓蒙書であることに間違いはありません。

上記のような批判点があることに留意するならば,本書は,なお,私たちが読むに値する優れた本であり,法律の専門家だけでなく,広く市民一般に読まれるべき良書として,すべての人に,本書の一読を勧めたいと思います。

書評:森信三『若き友への人生論』致知出版(2015/12/25)


森信三『若き友への人生論』致知出版(2015/12/25)


本書の概要

生涯,人間の生き方を問い続け1992年に97歳でなくなった著者が若い世代(65歳以上のシニア世代を含む。89歳で『全集』の執筆を完結した著者にとって,シニア世代は若い世代である)に対して,「二度とない人生」を幸福に過ごすためには何をなすべきかを語りかけた啓蒙書です。

97歳まで生きた哲人だけに,人生のそれぞれの段階について,以下のように,どのように生きるべきかを詳しく述べています。

  • 第1期:立志以前(0歳~14歳)
    胎児の段階,生まれてから保育所(幼稚園),小学校,中学校を経て,15歳になるまで)の教育のあり方が述べられています。
  • 第2期:基礎作りの時期(15歳~29歳)
    15歳から30歳になるまでに「二度とない人生を覚悟して生きる自覚」を育てるための方法が示されています。
  • 第3期:活躍期(30歳~59歳)
    30歳~34歳までの準備期,35歳~39歳までの信用確立期,40歳代の勇断を身につける時期,天命を自覚する50歳代の生き方について述べられています。
  • 第4期:人生の結実期(60歳~69歳)
    定年を迎える前にすべきことが示されています。
  • 第5期:人生の晩年(70歳~)
    すべての人が後世のために自伝を書くべきことが論じられています。

本書の特色

自分の人生の意味を知ることが「二度とない」人生を幸福に生きるために必要ですが,それが,実は,難しい理由が以下のように的確に述べられています(43頁)。

それでは,自分の天命を知るためには,どうすればよいのでしょうか。そのヒントは,好き」,「得手」,「得意」という事実によって啓示されていると筆者は述べています(47頁)。

われわれが,他人から命ぜられて使いに出かける場合には,われわれはその使命について直接知らされるわけであるが,われわれがこの地上に「生」を 受けた場合,われわれはこの地上において,自己の為すべき任務については,何らコトバを以って知らされて来たわけではないのである。

その啓示を頼りに,どのようにしたら「人のために尽くす」ことができるかを考えたときに,幸福な人生を送るための最初の条件が満たされると筆者は述べています(50頁)。

筆者によれば,幸福とは,以下のように,「その人の生活自体が,一個の統一を保っている状態をいう」とされます(200頁)。

わたくしは,幸福とは、さしあたっては、その人の生活自体が、一ケの統一を保っている状態をいうと考えているのである。随ってもしその人の生活の統一が乱れたり、さらには破れた場合は、それは幸福の反対の不幸と考えるわけである。

そして,本書の白眉は,「隠岐の聖者」永海佐一郎博士の言葉である「幸福は最初は不幸の形をして現れるのがつねである」という言葉と,筆者の経験から生じた「神はよりよいものを与えるために取り上げる」という言葉を関連させながら,「不幸をしのぶことで我見が払われ」幸福を手に入れるというプロセスの見事な記述でしょう(215~226頁)。

詳しくは,本書を読んでいただくほかありませんが,一般的な幸福ではなく,「私の幸福とは何か」,「私は,どうすれば,今の不幸から幸福にたどり着くことができるのか」と考えている人にとって,福音となる記述であると思います。

本書の課題

本書の前提は,「人生に二度はない」ということです。だからこそ,一日一日の生活を充実させることが大切であり,そのことが積もり積もって,幸福な人生となるという考え方を採用しています。

しかし,人生で大切なことは,人生のいくつかの場面で,決定的な決断を迫られたときにどのような選択をするかであり,安易な判断をしようとする際に,「もう一度生まれてきたとしても,その判断をするだどうか」というニーチェ風の観点から,その選択をすべきかどうか考え直すということも大切だと思います(本書に対するささやかな異論)。

本書の結論に異論はないのですが,「人生に二度なし」を生き方の基準とするのか,「もう一度生まれ変わったとしても,同じことをするだおろうか」という基準とで,どちらが,有効な基準なのかを,今一度考えてみたいと思っています。